祝福のメッセージ:2000ー09

NO. 200009     

全てが完成する日をめざして

 


神は地球の管理を人類にまかせておられる

 私たちを安全で快適な環境の中に住まわせるために、神は他のどこにもない特別な環境を地球上に造ってくださいました。私は地球全体がエデンの園のようだったと思います。愛と思いやりによって準備された地球上で人はどのように生きるべきだったのでしょう。漠然と生きるためだったはずはありません。神が願っておられる生き方とは何でしょう。また、私たちはそのように生きて来たでしょうか。

 造られたばかりのエデンの園には恥も恐れも何の心配もありませんでした。人も動物もありのままの姿で共存していたのでした。
 何にもましてすばらしいことに、いつでも神との親しい交わりがありました。
 けれども、神にそむくことによって、神との隔たりが始まり、恐れや恥じることが生まれ、苦労することも苦しむことも死を恐れることも起こってきたのです。


神は必要なものを全て備えてくださった

 私たちになくてはならないものは多くはありません。神はそれらのものを全て私たちのために備えてくださいました。私たちが欠乏したり、不自由をしたり、時には飢える人々さえあるのは、人類の罪のためです。欲望と満足のためにもっと多くを所有しようとして、与えられているものの価値を見失ってしまいました。そのために、緑の大地は砂漠化し、資源は枯渇寸前となり、飢えや環境汚染や自然のバランスを壊す結果となっているのです。

 それを代償に進歩とより豊かな生活を得るようになった今では、もう後には戻れないのかも知れませんが、本来は自然と調和して生きることが一番良い生き方であったことに、最近になってやっと気付き始めています。しかし、地球の自然破壊や社会の堕落が罪から来ている以上、罪の問題抜きでは元通りになりません。


人と人との関係、アダムとエバ

 一方、人が神との交わりの中で全てに恵まれ幸せであることは神の願いです。

 人と人は本来助け合うために造られた者であって、争い合うためではありません。神がアダムの助け手としてエバを造られた時、エバをアダムの下に置かれたのではありません。旧約聖書がここで使っている「助け手」という言葉は助手と言う意味ではなく協力者、同盟と言う意味です。決して上下関係はありません。

 「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16章7節)とイエスが言われた時、聖霊の上に立つ者になると言われたのではありません。

 助け手は自分にないもの、力の及ばないところを満たしてくれるものです。

 人は本来平等です。特に夫婦の間ではお互いに平等の立場で尊敬し合い助け合うべきです。もちろん、代表者が必要になる時もありますが基本的な立場は平等です。聖書はどの時代でも、男尊女卑を教えてはいません。それぞれの性格と能力の分野が違うように造られているのです。ところが、性格や能力の違いを無視して同一視することを主張したり、区別や差別をする傾向があります。どちらも聖書的な正しい考え方ではありません。

 それぞれに性格や役割の違いを認めて、それを生かした上での平等なのです。他の人が自分にない違った能力を持っている故に協力し合い、助け合い、尊敬し合うことが出来るのです。すると、何倍もの能力と素晴らしい関係とが生まれて来ます。神はそのためにこそ助け手を造ってくださったのです。


人は体、魂、霊の三つを持つ者として造られた

 神と人との関係は、目で見たり声を聞いたりするだけでは始まりません。「神がいるなら見せてくれ」と言う人がいますが、神は五感で知ることはできません。

 あるいは、「精神や感情によって神を感じる」と言う人がいますが、自分が感じるだけでは神との交わりにはなりません。五感も感情も大切ですが、全能の創造主と、その形に似せて造られた霊的被造物との間では、共通する霊的な関係が必要です。

 エデンの園ではそれが何の努力もなく自然に行なわれていました。人は初めからそのように造られていたからです。しかし、神はそれでよしとはなさいませんでした。そこには人が自分の自由意志で神と交わり神に従うという証明がされてはいなかったからです。神への従順と不従順の選択は、神と人との関係において、どうしても越えなければならない大きな試練でした。

 人はルシファーのように神に反逆することも、神より自分を賢いとして、神なしで自分の判断で生きることも出来ますが、自由意志で神に従うことを選ぶのです。

 人が神にそむく方を選ぶのを神は知っておられました。しかし、その選択は更に高度な神と人との関係のためにどうしても通らなければならないのです。神の無限の愛を人類に示す新たな関係が、永遠の御国に用意されるために、人が罪を犯してしまうことと、神が罪を贖ってくださるという経過を経なければなりませんでした。


エデンの園追放と人類の罪

 人はエデンの園で神のテストに失敗しました。神に従わない方を選んだのです。もはや「恐れも恥も心配も無く、全人格で神と交わる」という関係はなくなり、恐れ、隠れ、偽り、苦しみ、苦労し、死ぬことが始まったのです。

 あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。(創世記3章17-19節)


新しい天と地における新しい関係

 「イエス・キリストにより罪を取り除かれた者はエデンの園に近い神との関係を持つことができる」と言う人がいますが、長い歴史を通して積み上げられた罪の結果が残っているため、エデンの園と全く同じにはなれません。それはイエス・キリストの現われる救いの完成の日まで待たなければなりません。

 神は私たちがこのままエデンの園と全く同じ状態に戻ることを望んではおられません。もしそうなら、失敗を承知で私たちを試みる必要など無かったのです。

 約束の栄光に辿り着き神との究極の関係を築くには、試みを通り、失敗と悔い改めを経て救いを完成することが必要でした。新しい天と地には、エデンの園と比較にならない神とのすばらしい関係が、全ての贖われた者に用意されているからです。