No.200101
放蕩息子の父
私が心から神に感謝していることの1つは、子供たちがさして大きな問題もなく素直なクリスチャンとして育ってくれたことです。
親として自分の育てた子供が問題を持ったり、人に迷惑をかけたり、あるいは幸せでなかったりすることほど心の痛むことはありません。
生まれつき体が弱いとか、障害を持っているということなら、たとえどんなに大変なことであっても、何としてでも力を貸して、体を張ってでも一緒に頑張ることが出来るでしょう。それが喜びにもなり生きがいにもなることを期待して苦労を克服することが出来るに違いありません。実際そうなさっているすばらしい方を何人も知っています。苦労してはおられますが、決して不幸ではありません。
しかし、もし親の願いとは全く反対に、悪の道に進み、空しいことに身を投じ、それで自分を不幸のどん底に落とし、まわりの人々にも迷惑をかけているという状態を見るとしたら、どんなにかつらいことでしょう。親であるから、愛するからこそつらく、苦しいのです。当然の報いであるにしても、出来ることならその苦しみを代わりに受けてやりたいとさえ思うことでしょうが、多くの場合、人の親として出来ることには限界があります。
私は多くの親たちがそういうつらい経験をするのを見てきました。実は、神ご自身もそれと同じ痛みを味わわれたのです。
罪を犯した人類の痛みと苦しみは神の痛み
罪や反逆や不信仰は神にそむくことであると同時に自分自身を不幸にすることです。自分自身を不幸にすることは神の御心を痛めることです。
神は私たちを愛し、私たちの最善を願っておられます。しかし、自由意志が与えられている私たち人類は神の願い通りに動くとは限りません。しばしば神の御心とは反対の行動をしてしまいます。それで幸せになれるはずはないのですが、すぐにはそれに気がつきません。そして、どんどん神から離れてしまうのです。当然、その行き着く先は永遠の滅びです。
神はその現状を見て心を痛め、何とかして助けの手をさしのべようとなさいました。しかし、反逆の道を選んだ人類は素直に自分の意志をゆずろうとはしません。そういう生き方が本当の自由な生き方だと思っているからです。しかし、現状は争いと憎しみと不幸の連続です。
神のもとを離れて滅びの道を選んだ人類が、当然の報いとして痛み苦しみ孤独であるのを見て、神はご自分が身代わりになってもいいとさえ思われたのです。神は放蕩息子のような人類の苦しみを身代わりに受ける計画をされました。それは、神の子イエス・キリストが人類の罪を負って十字架にかかって死ぬことです。
素直(すなお)さは神の宝物
人類が神から離れてしまったのは神を神として崇めず自分を神としたためです。神のもとにたち帰る唯一の道は神からの救いの提供を素直に受け取ることです。
朝NHKのBS放送からこんな歌が流れてきます。
「青空は神様のおくりもの、素直さは神様の宝物。」
「雪の宝」という童話をアニメ化して再放送しているのです。
ここに歌われている「青空」に代表される美しい自然はどれをとっても神から人類に与えられているすばらしいおくりものばかりです。美しい自然があるからこそ、私たちは生きていることに大きな喜びを感じます。そのおかげで豊かな命がはぐくまれています。それをそのまま神からのおくりものとして受け取って、いつまでも大切にしたいものです。世界中の人が同じ気持を持っていてほしいとも願います。
次に「素直(すなお)さは神様の宝物」とありますが、その言葉は心に強く響きました。
誰でも自分にとって一番大切なもの、あるいは大切にしているものがあります。代々伝わる家宝とか、長年ほしがっていた高価な楽器、やっと手に入れた絵や彫刻、色々な高価なものを宝物として持っている人がいます。それはその人の宝物です。
戦後の貧しい時期に育った私は、履きもの1つでも新しく買ってもらったときはそれが宝物でした。服を買ってもらったらそれこそ天にも昇るほど喜んだものです。
神は全てを所有しておられ、豊かに富んでおられるので何も必要としていません。ですから取り立てて「神様の宝物」と呼べるものはないと思っていました。
ところが、神が宝物となさるようなものがあるのです。しかも、私たちの持っているものです。それは、神への素直な信仰です。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇17節)
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(コリント第二4章7節)
神は私たちを罪から救う道を開いてくださいました。何の代価も求めず、イエス・キリストによる救いを与えてくださいました。罪を赦されるために苦しい修行をしたり、救われるために難しい勉強をしたりする必要はありません。ただ素直に信じて救いを受け取ればよいのです。
神はあなたの素直な信仰を何にも優る宝物として受け取ってくださいます。
あなたは愛されているからです。