No.200105
生きること死ぬこと
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(へブル9章27節)(この言葉には続きがありますが、今はこの部分を取り上げます)
誰でも死という言葉や主題にはあまりふれたがりません。死は忌まわしいもの、いやなものと思っているからです。
けれども、全ての人はいつか必ず死というものを経験します。しかも、そこから帰って来た人はイエス・キリスト以外には一人もいません。
多くの人が死を恐れています
命のあるものはみな死にます。しかし、生かされている間はしっかりと生きるべきです。もしかしたら、よく分からない死というものを恐れることによって、生きることに対する意欲が湧いてくるのかも知れません。しかし、死を恐れるだけでは生きることが喜びではなくなります。いったい、本当に死はただ恐ろしいだけのものでしょうか。
聖書は、全ての人に死ぬことが定まっているだけでなく「死後にさばきを受けることが定まっている」とも教えています。
「さばき」と聞くと、罪人に対するさばきだけを考えがちですが、聖書が言う「さばき」は、罪人にも、罪のない人にも下される最終的な審判を意味しています。罪人には永遠の滅びの審判が、罪を赦された人には永遠の命の審判が下されるのです。ですから、イエス・キリストを信じて罪の赦しを受け入れている人にとっては、死とそれに続くさばきは、最終的な約束のものを受け取る時なのです。
使徒パウロは「死ぬこともまた益です」と言っています。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1章21節)
多くの人が恐れており、聖書も「死は敵であり、罪のとげである」と言っているのに、なぜパウロは「死ぬこともまた益です」と言えたのでしょうか。
牧師である私の友人がこのような話をしてくれました。
彼は夢の中で、病院のベッドに寝ていました。すると医者が来て「あなたの命はあと2時間しかない」と言いました。一瞬頭の中が真っ白になり、どうしたら良いのか分からなくなりました。
彼が最初に考えたのは家族のことでした。まだ小さい子どもがいたので、彼らのことが心配でした。しかし、自分が今死ぬことが神の御心なら、子どもたちのことは神が面倒を見てくださるに違いないという確信が与えられたので、安心しました。病室には大きな時計が掛かっていて、残された時間はあと1時間半でした。
次に、「死」ということについて考えました。まだ一度も経験したことのない「死」と、それに続く、「神の前に立つこと」はどんなことだろうと考え始めたのです。
牧師である彼は今までに何度もそれについて学び、人にも教えてきました。しかし、自分が体験するのは初めてでした。今までは聖書のことばや祈りの中でしか体験していなかったイエス・キリストを、今度こそ顔と顔をあわせて見るのです。
そう考えた時、彼の心は喜びと期待でいっぱいになりました。時計の針はあと30分のところを指していました。彼はむしろ待ち遠しくなりました。そして、その時が迫って来る期待と興奮のあまり、とうとう目が覚めてしまいました。
それが夢だとわかったとき、良かったというよりむしろ残念だったそうです。彼はそれ以後、死に対する恐れが消えてしまったと言っています。
生きることはキリスト
パウロは「私にとって生きることはキリストである」と言っています。たとえ、イエス・キリストに直接会うことがどんなにすばらしいことであっても、自分から死を求めてはいません。むしろ、この大きな約束への期待のゆえに、彼にとって生きることはもっと大きな意味を持つようになりました。私たちも与えられたこの命を、しっかりと生きなければなりません。
パウロにとっては「生きることはキリスト」でした。確かに彼の生涯はキリストが全てでした。「死ぬことも益である」ことを知っている故に、生きることに全力を注ぐことが出来たのです。
あなたにとって生きることは何でしょうか。
イエス・キリストによって罪を赦され、神の子どもとされている私たちには、キリストと一緒に永遠のいのちを生きることが約束されています。その約束は、今はまだ私たちにはよく分からない「死」というベールの後に隠されていますが、キリストにあるこの約束の中に生きるなら、やがて、全てがあなたの前に明らかになる時がきます。
ですから、キリストにあって生きることに熱心であってください。そうすれば、死についての心配はなくなります。たとえあなたがあと何万年も生きるとしても、地上の文明をどんなに発達させても、膨張し続けている太陽の軌道の中に地球そのものが入ってなくなってしまうときが来ます。宇宙をお造りになった神はそのことも心得ておられます。
もし、私たちが地上のことだけに執着して生きるとしたら、今の生活のこと、将来のこと、老後のことなど、心配の材料は尽きることがありません。その上、地上に生き続けることへの執着から「死」を恐れるようになります。しかし、神の約束に希望を置いて生きるとき、全ての心配は消えて喜びと安心がやって来ます。神は愛です。(ヨハネ第一4章8節)