No. 200111
死の陰の谷を歩くとも
ダビデの試練
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇23篇4節)
ダビデはかつて困難のどん底を通る経験をしました。その経験をとおして、彼はどんな状況の中にあっても平安でいられる秘訣を学びました。そのことを思い起こして詩篇23篇を歌っています。
サウル王に命を狙われて、国中あちこちと逃げ回っていた時には、毎日命の危険と恐れに満ちていたことでしょう。
自分の子供に反逆を起こされて、王位を追われることになった時には、悲嘆にくれて落ちのびていったことでしょう。我が子への愛と王としての責任との板ばさみになって苦しんだに違いありません。死の影の谷を歩く心境でした。
程度の差はあっても、誰にもそんな苦しい経験が1度や2度はあるものです。私にもありました。しかし、そういう時は大切なことを学ぶ時でもあるのです。
恐れが生み出す害
困難を経験することによって受ける痛手の中で一番大きな害は直接その問題から来るものではありません。むしろ、その困難を恐れることによって自分が生み出してしまう損害や痛手の方が大きいのです。
こんな話を聞いたことがあります。水におぼれている人を助けようとした時、おぼれている人が恐怖のあまり暴れて、助けに行った人を巻き込んでしまい、手がつけられなかったので、思い切り殴って気絶させて助けたというのです。じっと待っていれば、助けがすぐそばに来ているのに、恐れたために自分を見失って危なく命を落とすところだったのです。
しかし、困難に見舞われて、解決の道がふさがれたように見える時、恐れる心を静めることはなかなかできません。心配のあまり病気になってしまう事もあります。問題そのものよりも、もっと大きな害を自分で生み出してしまうのです。それが恐れの作り出す仕業です。
今、アメリカの航空会社は大損害を受けています。最近日本に来た友人は、飛行機はがら空きだったと言っていました。多くのアメリカ人が飛行機をやめて、車で旅をするようになったのです。そのため道路は混み合って事故が多くなりました。統計的には飛行機事故よりも車の事故の方が圧倒的に多く、毎年大勢の人が亡くなります。ここでも恐怖が危険の多い方をえらばせることになり、損害を増し加える結果になっているのです。
わざわいを恐れません
ダビデは「私にはわざわいはありません」とは言っていません。「わざわいを恐れません」と言っているだけです。実際、ダビデにもたくさんのわざわいが起こりました。しかし、大きな違いは、それを恐れないことにあります。
では、ダビデはなぜ「わざわいを恐れません」と言えたのでしょう。彼は私たちとは違うスーパーマンだったのでしょうか。決してそんなことはありません。確かに、彼は偉大な人物でしたが私たちと同じ弱い人間でした。失敗もあり、神の前に罪を犯してしまったこともあります。それでも彼が偉大な人物だったと言われ、今も私たちの手本となっているのは、彼がいつも神を近くに感じていたことにあります。彼は「いつも神の心の隣にいる人物」と言われています。ですから、「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」と言えたのです。
困難が全く無かったら学ぶことも成長することも出来ません。
イエスも言われました。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16章33節)
恐れは誰にでもあります。自分の力に余る出来事が襲ってくる時、誰にでも恐れる心がやってきます。しかし、恐れることによって問題は必要以上に大きくなってしまいます。その恐れに完全に支配されてしまっては、それだけで負けです。神がともにおられることを信じ、恐れを克服するのです。そうすれば、恐れによってこうむる二次的な害を避けることが出来て、困難はむしろ私たちを成長させ、私たちの益となって働きます。
イエスは弟子たちのためにこのように祈られました。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。(ヨハネ17章15節)
あなたのもとにある困難だけを見て恐れてはなりません。あなたの背後におられて、今も愛の手を広げてあなたを守っておられる神を信じて平安を持ってください。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14章1節)