No. 200202
キリストにある喜び
「キリストにあって喜ぶ」ということをよく聞きますが、それはいったいどういうものでしょうか。何もないのに、ただ喜んでいなければならないのでしょうか。そうではありません。それは実質的な喜びの秘訣です。
私たちはどんな時に喜びを感じるのかを考えてみましょう
誰でも物事がうまくいっていると喜びます。何かの誉れを受けた時も、欲しい物が手に入った時もうれしいものです。良い人間関係が出来た時、重荷や苦しみや病気が取り除かれた時なども大いに喜びます。他にもまだたくさんあげることができます。けれどもこれらの喜びはみな外側の状態や現象によって喜んでいるのです。何かが自分の上にやって来たり、起こったときの喜びです。ですから、その状態や現象がなくなったら、喜びも消えてしまいます。すると、喜びを感じ始めた時から、それが消えていくことを心配しなければなりません。
今ソルトレイクで冬季オリンピックが行われています。メダルをめぐって、喜びと落胆とが入り乱れています。以前、オリンピックの中継を見ていたとき、実況放送していたアナウンサーが「銀メダルに終わりました。」と言ったことがありました。それを聞いたとき少し驚いてしまいました。銀メダルはおろか銅メダルだって取れない選手が大勢いるのに、その選手にとって銀メダルでは喜べなかったのです。金メダルを取ってあたりまえと誰もが思っていたからです。いつも、金メダルを取っていて、今回は精一杯頑張った上で銀メダルだったとしたら、それを大いに喜ぶことはできないのでしょうか。ここに喜ぶ態度の大切な一面があります。
喜ぶことは外の出来事に対して内側でどう反応するかに大きく左右されます。ですから、同じ現象に対して、ある人は大いに喜び、他の人はあまり喜ばない、ということもあり得るのです。また、人によってその喜び方も違うのです。
本当の喜びは、いつでもどんな状況でも変わることのないもの
それは外側の状態に依存するものではなく、内側から来るものだからです。
誰かのために役に立った時の喜びや、大切な人のために大きな犠牲を喜んで払うことができるのは、喜びの本質にかかわるものです。何かの見返りを期待するのではなく、自分が行なったことそのものに対して喜ぶからです。それは、いつでも自分から生み出すことのできる喜びでもあります。
良いことをしたときの喜びも同様です。良いことをすればいつでも味わうことのできるものです。人のために役立つ喜びも、いつでも自分で生み出すことのできる喜びです。
外側の状況に依存したり、何か良い事が起こらなければ喜べないような、受動的な喜びは、いつでも期待できる喜びではありませんし、長続きもしません。ですから、内側にある喜び、しかも、自分から積極的に作り出すことのできる喜びを大切にして、それをいつも実践してください。そうすれば、あなたはいつも喜ぶことができます。
最後に、イエスが言われた喜びはどうでしょう
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。(マタイ5章12節)
イエスがそう言われたときの状況は、人々が迫害を受ける時のことでした。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15章11節)
この時も、イエスが苦しみを受けてこの世を去っていかれる時であり、弟子たちにとっては大きな悲しみの時だったのです。どうしてそんなときに喜ぶことができるのでしょう。
信仰によって未来にあるものを先取りして、今それを喜ぶからです
必ず得られることを確信したとき、大きな喜びとなります。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11章1節)
そのような視点から、イエスが言われた次のことばを注意深く見てください。そうすれば、あなたはいつでも喜ぶことのできる秘訣を得られることでしょう。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5章3-9節)