No. 200203
復 活
復活は新約聖書が教える重要な教えの1つです。特にキリストのことばと奇跡とご自身の復活とによって、主を信じる人々の復活が確かなものになり、それがクリスチャン信仰の真髄となっています。
すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。(使徒26章23節)
キリストの復活は他には例のない教え
人類は、死を恐れ、あらゆる方法を凝らして死者を葬り、復活を願って来ましたが、具体的にはっきりとした復活の意義や証拠を残していません。復活の思想は新約聖書以外にも見られますが、それらは単純な願いであって、現実とのかかわりを具体的に議論されることがありませんでした。
旧約聖書のダニエル、ヨブ、詩篇の中に記録されている復活についての言及は、肉体が滅びても、たましいは永遠に生きることを主張するものであって、復活そのものについての記録ではありません。ユダヤ人は復活の思想を意識的に避けていたと考えられます。
また、新約聖書の中に書かれている、ヤイロの娘、ナインのやもめの息子、ラザロの3つの復活の例も、復活の教理の中心として記録されているのではなく、死んだ者が生きかえったという奇跡の記録でした。彼らもまた、年老いて死んでいきました。それゆえ、キリストの復活とははっきりと分けられています。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。(ローマ6章9節)
キリストの復活は徹底的な議論に耐える
キリストの復活は、他とは全く異なっていて、歴史的にも、科学的にもあらゆる方面から永年にわたって真剣に議論されました。その議論は今も続いています。
キリストの復活は元の状態に戻ることではなく、栄光の姿へ進む復活であり、永遠的なものです。そのような復活の記録は他のどこにも見られません。
復活は人類の歴史にとって重大な意味を持っています。キリストの復活を信じるか否かが、その人の永遠を左右する大きな分かれ目になるからです。
復活への希望を持っているゆえに、クリスチャンは地の塩、世の光として、今の命を大切にし、道徳的にも社会的にも、喜びをもって積極的に神と人々の前に正しく生きようと努めるのです。
復活は死の向こう側にある
復活を論じるためには死の問題を避けて通ることは出来ません。死がなければ復活もないからです。死は誰の上にもきますが、誰にとっても未知の体験です。
あらかじめ死を体験しておくことは出来ません。誰にとってもいきなりのぶっつけ本番です。ですから、誰でも不安なのです。どんなに悟っているように見える人でも、初めての経験なのです。分からないことばかりです。信仰を働かせて、神をいつもそば近くに感じている必要があります。そして、逃げたり恐れたりしないで、堂々と正面から向き合うべきです。神が共にいてくださる故に出来ます。
私は、祈りの家族の皆さんが、この点についてもはっきりとした確信と平安を持ってくださるよう願っています。
私は何十年もイエス・キリストを信じ続け、牧師として多くの人を信仰に導くことができました。イエス・キリストを愛することにおいては誰にも負けないつもりです。ですから、表面だけを取り繕って悟ったようなふりはしません。神の前に、真実ありのままに生きたいと願っています。死に直面することは全く平気だというわけではありませんが、恐ろしくはありません。私にとっても、死は未経験で分からないことばかりです。しかし、それ以上に大きな期待を持っています。イエス・キリストに直接会えることや、信仰によって受けとめて来た数々の約束が全てその通りであったことを知る決定的な瞬間だからです。
私は全ての人がこの確かな約束に期待して平安を得てほしいと願っています。
復活は全ての疑問を明らかにする
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 (コリント第一13章12節)
今は信仰を働かせる時
今は信仰を働かせる時です。私たちは神についての膨大な真理の一部分をぼんやりとしか見ていません。しかし、その日には、私たちは直接顔と顔を合わせて神を見るのです。イエス・キリストは全ての疑問に答えて、何の心配もない大きな平安の中で私たちを永遠のいのちに導いてくださいます。
ですから、信じることの尊さを十分に発揮出来るのは今しかありません。
キリストが栄光のうちに現われ、全てのことがはっきりとした時には、もう信仰は必要なくなります。「何もはっきりとはしていなかったあの時に、信仰を働かせて、思い切って約束を信じ、神を信頼して従っていればよかった。」と思っても遅いのです。信仰を働かせるべき時は今しかありません。キリストの栄光の日には全てのことが1つ残らず明らかになるからです。