No. 200204
信 仰
ある青年が私に、この世の中で信仰を持つとは一体どういうことなのか、質問をしてきたことがありました。
彼は決して不真面目な人柄でも、いいかげんな生き方をしているわけでもありません。真剣に信仰とは何かを考えていたのです。しかし、自分が何をどう信じているのか分からなくなってしまったのです。
多くの人はこの青年のように、深く考えないで、教会に行っていれば信仰があるのだ、聖書を読んで祈っていれば信仰者でありクリスチャンであると考えます。確かにそれは間違ってはいません。しかし、「信仰とは一体何か」に対する真剣な質問への答えにはなりません。あなたの子どもさんやお孫さんがそのような質問を真剣にしてきた時、それにどう答えたら良いのでしょうか。
実際、私たちのもとには、子どもが救われるように、孫がクリスチャンになるように、夫が永遠のいのちを持つことが出来るようにという祈りのリクエストが毎日たくさん寄せられています。それは本当に切なる祈りです。「では、どのように信仰を持ってほしいのか」とたずねられたとき、どう答えるのでしょう。
見えないゆえに信じることはよりいっそう具体的であるべき
私たちは神を見ることは出来ません。神はあまりにも大きく偉大な方であるために、私たちの理性にはあてはまらないのです。ですから「これが神である」と言って具体的に示すことも出来ません。目に見える偶像は本当の神ではありませんし、神を正しく現わしてもいません。神は私たちの目には見えないゆえに、神を信じることはよりいっそう具体的であるべきです。
ほとんどの人が、漠然と、神の存在を信じていますが、誰ひとり神を正確に知ってはいません。また、具体的に現わすことも出来ません。どのような方法であっても、私たちの知恵や能力では神の全体を捉える事は出来ないからです。それゆえに、信仰が抽象的になりやすく、独りよがりの思い込みになりやすいことを注意しなければなりません。ですから、確実に永遠のいのちの保証を得るためには聖書の教えに基づいた具体的な信仰を持つ必要があるのです。
クリスチャンは何を信じているのか
信仰さえあれば何を信じていてもいいというわけではありません。私たちが信じるべきことははっきりとしています。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20章31節)
人となられたイエスは単なる偉大な人物ではなく、神の子であり神と等しい方です。私たちがそのことを信じることができるよう聖書は書かれたのです。
自分が罪人(つみびと)であってこのままでは神の前には立てないということに気がついて、罪のゆえに滅びるようなことがないよう、神の子イエス・キリストを救い主として信じて永遠のいのちを持つようにと聖書は教えています。
これを、神、罪、救い、永遠のいのち、と覚えてください。
神、罪、救い、永遠のいのち
神の子は、人となられたゆえに、神であられるご自分を、具体的にしかも正確に私たちに現わすことが出来るのです。このイエスを神の子と信じることによって、私たちは神を具体的に知って信じることができるのです。
次に私たちが信じるべきことは、神の前には全ての人が罪人(つみびと)であると言う聖書の教えです。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3章23節)
私たちを罪から救うためにキリスト・イエスのいのちが人類の罪のためのなだめの供え物として十字架の上でささげられました。それは、罪によって神から離れてしまった人類をご自分のもとに受け入れてなおご自身の義がまっとうされるためです。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ3章26節)
こうして、イエス・キリストによって神の前に義とされた者は神の子どもとして受け入れられて永遠のいのちが与えられるのです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)
どうかあなたもこの4つの具体的な信仰の基本をしっかりと確認して、永遠の約束を確かなものにしてください。