No. 200205
感謝と信仰の告白
「感謝する」ということばの中には、本来「評価する」という意味が含まれています。その点で、口先だけで、ありがとうと言う事とは違います。
「神に感謝をする」ことは、神を神として崇め、命と恵みを与え、愛し、良いことを行なってくださる神に対して、当然の栄光と誉れをお帰しし、神としての正当な評価をすることを意味します。それは神への信仰告白であり礼拝なのです。
神に感謝をすることは本来、全ての事について総合的に神に感謝し崇めることを意味します。何か1つのことだけについて感謝をすることは、感謝の一部分に過ぎません。全ての事の背後に働いておられる方を意識して感謝すれば、どんなことにも感謝することが出来ます。これが神への信仰告白と礼拝に通じるのです。
聖書の中には感謝ということばが大変多く使われていますが、そのほとんどが神への感謝として用いられています。
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩118篇1節)
イスラエルの民衆は、機会あるごとにこの言葉を唱えて神への感謝と礼拝を表わしました。同じ言葉が詩篇の中だけではなく、旧約聖書のあらゆるところに繰り返して出てきます。
旧約聖書の時代には特別に「感謝のいけにえ」の規定があって、律法に従ったささげものによって神に感謝し礼拝しました。
主に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。
(レビ22章29節)
いけにえの種類も捧げ方も全て律法に定められている通りに行ない、律法どおりにすることで神を敬う心を表していました。
新約聖書の時代になると、律法の定めるところによってではなく、自分の心からあふれる気持ちを行動に移す形で神への感謝を表わすようになります。
ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(コリントⅡ9章15節)
では、私たちは毎日の生活や祈りの中で、神への感謝をどのように表わしたらいいのでしょう。心の中だけで感謝をしている事は、本当の意味で、感謝にはなりません。感謝は、評価し、告白し、行動に表わすことだからです。
イエスは食事ごとに感謝をし、パンを裂いて分け与えた
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。(ルカ22章19節)
イエスが感謝をささげてパンを裂いたのは最後の晩餐の時だけではありませんでした。食事のたびにそれをなさいました。ですから一緒に食事をする事は神を礼拝する事の一部だったのです。後に二人の弟子が、復活の主と気づかないまま一緒に旅をしていました。イエスが感謝をしてパンを裂く様子を見た時、それが主であったことがはじめてはっきりとわかりました。(ルカ24章30、31節)使徒時代の教会も、人々が一緒に集まると、パンを裂き、神を礼拝していました。私たちも神に感謝をささげる姿を自分のアイデンティティーにしたいものです。
クリスチャンは公の場でも堂々と感謝をささげる
公の場で食事をする時なども、堂々と感謝をささげてください。こそこそして隠れるような態度は自分の信仰を弱くするだけでなく、全能の神に対して失礼です。堂々と信仰を表明して行動していれば、人々はあなたをクリスチャンとして敬意を払うようになります。そのことがあなたに適度の緊張を与えて、いつも自分を正しい行動に導くことの助けになります。食事の時の感謝にかぎらず、神に感謝をささげ礼拝をすることは実質的なことです。ただ拝むだけとは違うのです。
もちろん、信仰をはっきりと表明することが出来ないようなときがあっても、神はあなたの弱さを理解し、赦してくださいます。決してがっかりしたり、自分を責めたりする必要はありません。神はそのことであなたをとがめたりはなさいませんが、それでよしとしておられるわけでもありません。次の機会には人々の前でも勇気をだして、恥じることなく主の名を呼ぶことを期待しておられるのです。なぜなら、そうする事によって、あなたは本当の平安を持つようになるからです。
それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。 (ピリピ1章20節)
このように公の場で神に感謝する事は、信仰を告白する良い機会ともなります。
人への感謝も神への感謝の習慣が自然に表われる
いつも神に感謝をしている人は人に感謝をする時にも素直にできるようになります。人に感謝を表わすとき、神への感謝の態度を基本にして、その人を総合的に正しく評価して、感謝の心をはっきりとした言葉や行動によって表わすことができるからです。
感謝の心を素直に表わす事のできる人は本当にすばらしい人です。