No. 200206
そのときも主がともにおられ
私たちの人生はいつも平坦な道ばかりとは限りません。困難な道を通ることもあります。大切なことは、私たちがそれにどう対処するかということです。
誰でも困難に直面することがあります。怒りをぶちまけたいような時もあります。心配で夜も眠れないという時もあります。将来への不安と恐れで震えおののくような時さえあります。深い孤独感におそわれ何にも手がつかないことだってあります。あるいは人に裏切られて絶望的になることだってあるかも知れません。そんな時その心の内を誰がわかってくれるでしょう。その時のためにこそ、イエスはあなたのそばにおられるのです。
誰かに話さないではおられないほどの喜びに溢れる時だってあります。じっとしておられず、歩き回ったり、小躍りしたりしたくなります。そんなとき誰に話せば一緒に喜んでくれるでしょう。イエスがあなたとともにおられます。
あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ5章13-15節)
困難を乗り越えるために
サッカーでも野球でもアイス・スケートでも、どんなスポーツをする場合にも、今やっているスポーツとは関係なく、筋肉だけを鍛えるトレーニングが取り入れられるようになりました。選手たちは汗を流し、顔を真っ赤にして重りを何度も押したり引っ張ったりします。すると筋肉は、今耐えている重さの何倍もの負担に耐えられるように強くなります。それによって、今やっているスポーツの技術も向上するのです。訓練が辛いからといって重りを小さくしたら、あまり効果はありません。逆に、早く強くなろうとして一度にあまり重りを大きくし過ぎると、筋肉をいためて、役に立たなくなってしまいます。ですから、訓練を指導しているコーチは選手一人一人の重りを注意深く見守って体力に合った訓練をします。
困難は誰の上にもやって来ます。そしてその困難はある程度私たちを強くしてくれます。けれども、絶えられないほどの困難はかえって私たちをだめにします。
困難から逃げないで、むしろそれを私たちの益として役立てるには、互いに重荷を負い合い、祈り合うことです。困難に押しつぶされないために、いつでも、全てにおいて身を任せることのできる信仰をイエス・キリストにおいて下さい。神はあなたが耐えられないような困難は決してお与えになりません。
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(コリント第一10章13節)
喜びを神への讃美とする
今、日本中がワールド・カップでわいています。勝っても負けても、熱烈な声援が飛びます。今は、日本中が1つのスポーツに熱中しています。
宇宙の創造主への讃美が全ての人によってこれほど大々的に外に現わされたらどんなにいいでしょう。
国をあげての熱烈な声援はすばらしいことですが、いつまでも続くものではありません。やがて冷めていきます。けれども、神への讃美は一生続くのです。
あなたの心に湧いて来る喜びを神への讃美にしてください。どんな小さなことでも、そのために神を讃美するなら、長続きのする大きな喜びになるのです。
私は小さな子供だった頃、新しい下駄を買ってもらったときのことを今でも忘れません。それを持って家中を飛び回って喜びました。その頃は誰でも下駄をはいていました。それがどんな下駄であったか、いつはいたのかは全く覚えていませんが、その喜びと家中を飛び回ったことだけははっきりと覚えています。
困難な出来事そのものも、喜びの原因となったこともやがては忘れられます。けれども、強められた信仰と神への讃美はいつまでも残るのです。
肉体の癒しと罪の赦し
肉体の癒しは一時的で、やがてまた衰えていきます。立ち上がった足なえも、見えるようになった盲人も、生き返ったラザロでさえ、その体はもうありません。もちろんイエスはそれを承知で癒し生き返らせて下さったのです。それによって、その人や私たちの信仰が強められるためでした。大切なことは、イエスはどんな時にもともにいて私たちを救ってくださるという信仰が与えられることです。
一方、罪の赦しはゴールの始まりです。罪の故にことごとく神に反抗していた私たちが、神の側に立ってその教えを受け入れ、私たちを完成してくださる方の導きに従うように変えられるからです。それは永遠へと続くのです。
全てのことの節目節目において、私たちの手の届くところに、いつも主イエス・キリストがおられるのです。あなたの手に余る大きな困難のときにこそイエスはあなたとともにいてあなたを助けてくださいます。