No. 200208
希望の持てる人生
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5章5節)
本物の希望を持つとき私たちの人生の質は大いに高められます。希望は勇気を与え、確信を持たせ、困難を乗り越えさせてくれます。希望を持っていれば、私たちは毎日喜びに輝きつづけることが出来るのです。死に直面した時にさえ、平安を失うことがありません。
希望は心配や恐れを取り除き、困難に立ち向かう勇気と力を与え、しばしば、能力の限界を押し広げて前進させてくれます。
そのような希望はどこから与えられるものでしょう。
神から来る、生きて働く希望
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(ペテロ1章3節)
イエスの弟子ペテロは、迫害によってエルサレムから散らされて行ったクリスチャンたちに手紙を送りました。困難と不自由と異郷の習慣の中にあってさえ、勇敢に福音を伝え、周りの人々を変えていくことが出来るのだと教えて彼らを励ましました。迫害のただなかに放り出されて、明日のわが身がどうなるかさえ分からない状況の中でも、救われる人々が後を絶たなかったのは、彼らがひそかに身を隠して迫害が過ぎ去るまで沈黙を守る「隠れキリシタン」にはならなかったからです。彼らは死をも恐れず、伝えなければならない大きな希望を持っていたのです。それは、私たちを罪から救い出して新しく生まれさせてくださった神から与えられる、生きて働く希望です。
ペテロが言う「生ける望み」とは宇宙の創造主であり、生けるもの全ての源である神を土台としていて、どんな時にも生きて働く確かな希望だったのです。
キリストのうちにある希望
神はイエス・キリストをこの世に遣わし、神を離れてしまった人類に神を知らせ、神の栄光のすばらしさをあかしし、神の愛がどれほど大きなものであるかを証明しました。それだけなら、神の一方的な力が人類の前に現わされただけに終わってしまいます。けれども、それだけにとどまらず、イエス・キリストご自身が私たちの希望となり、いのちとなってくださったのです。神の愛にあふれて私たちの中に住み、私たちの中から恐れを取り除き、永遠のいのちの希望を持たせて、本来あるべき姿を取り戻させてくださるのです。
復活の希望
今私たちが受け入れ、聖霊によって私たちの中に内住してくださっている主は、復活のイエス・キリストです。私たちが主イエスにおいて持っている希望は、復活によって保証された希望なのです。
無神論者は「人は偶然に現われ、何かの目的を持っているものではなく、また、突然に消えていくものだ」と言います。そこには何の希望も見出せません。
しかし、神によって造られた者には造った方の意思と目的が込められています。ですから、そのまま消えていくことはありません。造られた者にとっては、死がある限り復活はかならずあるのです。けれども、どう復活するかが重要です。
神の目的からそれて失われた者として復活するのではなく、主を受け入れた者として復活し、神の目的に添った栄光に満ちた永遠を迎える者となってください。
究極の希望を持つ者は日々希望を持って生きる
この希望は「復活と永遠」のためだけに限定されてはいません。毎日の生活の中にも活力を与えてくれるものです。
一時的な希望はしばしば裏切られます。期待が大きければ大きいほど、失望も大きなものになります。しかし、永遠の希望につながっている日々の希望は、決して失望によって終わることはないのです。
ですから、私たちは日々希望を持って生きることが出来ます。今少々辛いことがあっても、明日はどんなすばらしいことが待っているか、次にどんな良い事が起こるか、毎日を楽しみにしていてください。思いわずらいや心配が消え去り、一日一日がすばらしいものになります。
(ローマ5章1-5節)
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、
私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、
いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、
神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。