祝福のメッセージ:2002ー09

  No. 200209

キリストと共同の相続人


 日本の法律では実子にも養子にも、長男にも末っ子にも、何人子どもがいても、すべての子どもに平等に財産を相続する権利があります。

 聖書は、私たちは神の子どもであり神の国を相続する者であると教えています。私たちはまず、キリストの十字架によって罪を赦され、神の子どもとされるのです。それから、信仰によってキリストの内を歩み、キリストと共に、神の国を相続するものとなるのです。罪によって神から離れてしまった私たちだけでは、神の国を受け継ぐことはできません。

 私は両親から何の財産も相続しませんでしたが、肉の命を与えてもらい、大切に育ててもらったことを感謝しています。

 私自身も、子どもたちにのこすような地上の財産は何もありませんが、自分たちの信仰の手本をのこして、子どもたちと共にキリストにある永遠のいのちを受け継ぐ者となることを目ざしています。私たちはクリスチャンであり、神の子どもとされているからです。

 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8章16-18節)


新しい命を受け継がせるために

 毎年秋になると、必ず鮭が上ってくる川があります。彼らの忠実な習性に私はとても感動します。何日もかけて、何も食べずに、ただ上流へ上流へと上って来ます。急流はもちろんのこと、滝や堰(せき)さえも飛び越えて、傷だらけになっても、猛烈な執念で上流を目指して来るのです。上流においしい餌が待っているわけでも、安全な住み場所があるわけでもありません。終着点にたどり着くと、産卵をして皆死んでしまいます。そのことだけのために数々の苦労を乗り越えて上って来るのです。

 彼らは自分の命をかけて新しい命をのこしているのです。苦労しなくても十分に餌のある環境に卵を産むのではなく、「時が来れば上流を目指す」という性質を卵の中にのこして死んでいくのです。ですから、川を下った子どもたちは、やがて同じように上流を目指して上ってきます。これは、はるか昔から繰り返されてきた、彼らが親から受け継いでいる遺産なのです。

 イエス・キリストは私たちのために命を投げ出してくださいました。罪のために死ぬべき私たちの代わりに十字架にかかり、永遠のいのちという決してなくなることのない遺産を私たちに相続させるために、尊いご自分の命を捨ててくださったのです。永遠のいのちを受け取るために、私たちは何をすればよいのでしょう。


キリストの死にあずかるバプテスマ

 私は40年ほど前に洗礼を受けました。そのときは頭の中でしか理解していませんでしたが、洗礼は自分がキリストと共に罪に対して死に、キリストと共に新しいいのちによみがえることを意味しています。けれども、私はあまり深い意味を考えずに、信仰によってイエス・キリストを私の救い主として受け入れたことのしるしとして洗礼を受けたのです。

 ところが、聖書をよく読むうちに、そのことにはさらに深い意味があることがわかってきました。

 洗礼は信仰を公に告白して神の子どもとなる儀式です。自分の意志で、信仰によってそれを受けると、その中に秘められている変化が実際に自分の上に起こるのです。洗礼を受けることによって私たちがキリストと共に罪に死ぬことを公に告白すると、私たちと神との和解が成り立ち、私たちの罪が神の記録から消されて、キリストと共に歩む限り、神は私たちを罪のないものとみなしてくださるのです。


キリストと共に新しいいのちによみがえる

 このように、洗礼は儀式ですが、信仰によってそれを受けることで、私たちは罪から切り離されて罪に死に、新たに永遠のいのちを与えられて生きることが現実のこととなるのです。

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

 この真理がはっきりと把握できたとき、私たちはキリストの名のために苦しみを受けても、また、キリストのゆえに迫害を受けることがあったとしても、もはやそれを逃れようとしたり隠れたりはしなくなります。むしろ、それを喜んで受けたいと思うようになるのです。なぜなら、そうすることによって、私たちがキリストと共に永遠のいのちの遺産を受け継ぐものであることをますますはっきりと確信して喜びにあふれるようになるからです。