No. 200210
ただ少しだけ神より低く
聖書は「互いに仕え合いなさい」と教えています。お互いのことを心にかけて祈り合うことも、仕え合うことです。聖書は具体的に自分を低くしてしもべのようになって仕え合うことを教えています。
互いに足を洗い合う
イエスご自身も弟子たちの足を洗って、しもべとして仕え合うことの大切さを教えられました。
主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(ヨハネ13章14節)
自分よりも下の人に仕えることは、なかなか実行するのが難しいと思われています。人目を気にしたり、秩序を保たなくてはと考えてしまうからです。
日本の伝統的な習慣に「目上の人を敬う」ことがあります。良い点のある習慣ですが、その秩序が若い人々の間では壊されつつあるのを心配する人びとも少なくありません。しかし、なぜ子供たちが親を尊敬しなかったり、教室で生徒が先生の言うことを聞かないのでしょう。それは自分がどんなに値打ちのある者かを教えられていないからです。自分の価値に自信があれば安心して人に仕えることができるのです。
私たちが仕えるのは身分の高い人々
かつて、知人の一人が「若い頃、ある皇族の家敷で働いていたことがある」と、自慢げに話していました。身分の高い人や有名人のために仕えることは、むしろ誇りになると思われているからです。大統領や総理大臣に、「私の家で勤労奉仕をしてくれ」と言われたら「お茶くみでもトイレの掃除でも何でもやります」と言う人は大勢いるに違いありません。
けれども、身寄りのないホームレスの人々のために食事を届け、掃除洗濯などの世話をしてマザー・テレサのようになる人はそう大勢はいません。人に仕える時、その人の身分を自分勝手に計って差をつけてしまうからです。神の目には一人一人が大切であり尊い存在であることを忘れてはなりません。
多くの人は「マザー・テレサは自分たちにはできないことをやった偉い人だ」と、感心し、尊敬もしています。しかし、日本に来た時、彼女はテレビの取材に答えて「私はイエスの教えを大いに喜んで実行しているだけ」と言っていました。神が自分を尊く見て下さっていることを知っており、自分が仕えている人々も神の目には尊い存在であることを知っていたのです。多くの人が考えるように、人のやりたがらない、いやなことを、修行だからと思って忍耐してやっていたのではありません。そこに大きな喜びを見いだしていたのです。イエスの願いは、弟子たちだけでなく全ての人がその喜びを経験することです。
どこにその秘訣があるのでしょう
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。(詩篇8篇4-6節)
神が宇宙をお造りになった目的は、そこにあなたや私を住ませることです。
人が良い環境に恵まれて、意味のある生き方を見いだし、そこで一生を生活し、永遠を思う心が育つような生き方をすることができるためには、今の地球が必要だったに違いありません。その地球を生み出すためにはこれだけの大きさの宇宙が必要だったのです。神は私たち一人一人のためにそうしてくださったのです。あなたも私も神の目には確かに特別な存在なのです。
ですから、神は人を神の形になぞらえ、少しだけ神よりも低く造って、栄と誉とを与えておられるのです。身分や地位に関係なく、全ての人がそれだけの値うちを持っているのです。
神の前に人はみな等しく尊い
今、富んでいる人も、高い地位にある人も、一時的に富を預かり、地位を与えられているのです。チャンスや才能に恵まれなかった人も、体が弱くて十分な働きができないと思っておられる方も、神の前に立つ時には皆が平等です。神がご覧になるのはその人の内側にあるものであり、ご自分が手塩にかけて造った作品だからです。
ですから、私たちは、一時的に外側に見える身分や地位を越えて互いに他の人を自分よりも尊いと考えて仕え合うべきです。外側に見えるもので人を区別すると、大切なものが何も見えなくなってしまうからです。
フイリッピンの比較的裕福な家庭に育った青年が有名な神学校に入りました。ある日、彼は学校のトイレが汚いことに気が付き、学長のところに行って報告しました。「学長、大変お忙しいところをすみませんが、この学校は有名校です。トイレが汚れていてはこの学校の名前に傷がつきます。至急改善してください」学長は「よく分かった、すぐにそうしよう」と答えました。これで有名な神学校の学生としての義務を一つ果たしたと、誇らしく思って満足していたこの学生は、しばらくして、学長がバケツを持ってトイレに入って行くのを見て驚きました。学長が自らトイレの掃除をしていたのです。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
(ピリピ人への手紙2章3節)