祝福のメッセージ:2002ー11

No. 200211

本物を求める



 偽ブランドやコピー、インスタント製品が手軽で重宝されているこの頃です。それだけに本物を求める心も高まっています。毎日の消費生活の中でも国産品、手作り、元祖、などという言葉だけが氾濫して、いったい何が本物で信用できるものなのかわからなくなってしまいます。言葉だけに惑わされることなくどのような値打ちがあるゆえに本物といえるのかを見極める心を持ちたいと思います。

 そこで、私たちが求めるべき究極の本物とはいったい何か考えてみましょう。
 私たちは科学の発達した時代に生きているために、科学万能主義に陥り、目に見える物だけが本物であり、大切だと思ってしまいがちです。目に見えないけれども大切なものはたくさんあります。多くの大切な物が形にはあらわせないものであるために、しばしば軽んじられ、見すごしにされてしまうのです。


目に見える物は一時的なもの

 現代は目まぐるしく変化し、それについていくのに忙しすぎるため、今見ている物、手で触ったり所有したりすることのできる物だけに心を奪われてしまい、人の心の奥で起こっていることや自分自身の未来にかかわることなどをあまり心にとめない習慣がついてしまっています。本当にそのままでよいのでしょうか。

 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

(コリント第二4章18節)

 あなたのすぐ近くにいる人の心の中で起こっていることに注意の目を向けているなら、その人の心にあることが目には見えないけれども少しずつ分かってきて、人間関係も思っている以上に良いものになっていきます。

 信仰に基づいたそのような態度と習慣は神が私たちの中に吹き入れてくださった永遠のいのちを求める霊的な力を高めてくれるのです。


イエス・キリストは本当の食物

 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。(ヨハネ6章27節)

 教会で行なう聖餐式では、イエス・キリストを信じる者が一緒にパンとぶどう酒(ぶどうジュース)をいただきます。これは繰り返して行なうようにとイエス・キリストが直接お命じになったもので、そこには深い奥義が秘められています。

 聖餐式でいただくパンは空腹を満たすためではありません。ぶどうジュースも体の栄養を補ったり渇きを潤したりするためではありません。その役割は目に見えない奥義を理解するための象徴です。聖餐を受けることは背後にある、体では味わうことができない本当の食べ物であり本当の飲み物であるイエス・キリストを受け入れることです。その奥義は目には見えない永遠のものを示しています。

 イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。

 「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26章26-28節)

 弟子たちは、目に見えるパンとぶどう酒を通して神の子イエスが、人類を救うために十字架で命をなげだされたことを思い起こし、それを信仰によって受け取るという奥義を学んだのです。

 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6章35節)


目に見える物を通して目に見えない物の大切さを知る

 イエスは、最後の晩餐の席でパンを取り、感謝してそれを裂き、言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

夕食の後、杯をも同じようにして言われました。

「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(コリント第一11章24-25節)

 ですから、私たちは、目に見えるパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで、主イエスの十字架の死によってもたらされた救いを告げ知らせるのです。


神のわざとは神の救いのご計画を信じること

 イエスは一時的なパンのためではなく永遠の食物のために働きなさいと言われました。人々が「神のわざとは何か」と尋ねるとイエスは答えて言われました。

 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6章29節)

 目に見える奉仕をすることだけが神のわざではありません。それも大切ですが、神のわざとは、第一にイエス・キリストを信じる事です。また、一度信じたらもうそれでよいというのでもありません。イエス・キリストを信じることは継続的に続くことであり、イエスに直接お会いする再臨の時まで繰り返して、日々信じ続けることなのです。そうすれば私たちの毎日の生活は力にあふれたものとなります。