No. 200304
人の子は復活しなければならない
十字架と復活はともに神の御心
イエス・キリストが罪の身代わりとして十字架の上で死ななければならないことは始めから決まっていました。人類が神に対して罪を犯し、神が人類の救いを計画されたときから、避けれないものとなっていました。十字架の死という苦い杯はいつもイエスの前に置かれていたのです。それが神の御心でした。
ではなぜ神の子が十字架を避けたいと願われたのでしょうか。それは、神の子イエスがそれほどまでに人に近づき、人の痛みを完全に理解してそれを負われたからです。イエス・キリストは人として十字架の苦しみを通られたのです。
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26章39節)
イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(マタイ26章42節)
同様に、イエス・キリストの復活も始めから神のご計画の中にありました。神の子が死んだままになっていることはありえないからです。
神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(使徒の働き2章22-24節)
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。(マタイ16章21節)
栄光の姿への復活
聖書は繰り返し「イエス・キリストは必ず復活しなければならない」と教えています。神の救いのご計画の中では死は終わりではないのです。私たちは栄光の姿に復活するのです。では復活の体は具体的にはどのようなものでしょう。
イエスは復活して弟子たちの前に姿を現わことによって、それを具体的に示されました。誰も経験していない復活の姿をイエスはお見せになったのです。
ラザロの復活も(ヨハネ11章)、ナインのやもめの息子が生き返ったのも(ルカ7章)、そのときだけの特別な奇跡であって誰にでも適用できるものではありません。もちろん、栄光の姿への復活ではありませんでした。
けれどもイエス・キリストの復活には特別な意味があります。それは私たちの手本であり保証です。私たちもそのような姿に復活することを示しているのです。
わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14章19節)
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(コリント第一15章20節)
罪からの贖い
イエス・キリストが復活しなければならないもう一つの大切な理由、それは、復活こそ罪のあがないが完成したことの証明だからです。
すべての人は罪の性質を持って生れているため、そのままでは神に受け入れていただくことはできません。このままでは、すべてにおいて聖く完全な神の基準には到底届かないからです。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3章23、24節)
しかも、人はどんなに努力しても自分の力では神の聖さや完全さには到達できません。神は永遠に滅びの中に投げ込むために人を創造なさったのでしょうか。そうではありません。むしろ、人を神とともに永遠に住むのにふさわしい者とするためです。人には完全な自由意志が与えられています。神に従うことも、従わないことも、どのような選択も許されているのです。けれども、神に従わない方を選んでしまった人類は、その結果として、まず罪の代価を支払い、罪の報酬である死の問題から開放されなければなりません。イエス・キリストは自分の命によって、私たちに代わって罪を贖ってくれたのです。贖いは救いの計画に不可欠であり、永遠のいのちへの大切な段階です。神は今私たちが喜んで従うことを選ぶよう導いておられます。このように、人類創造のわざは今も続いているのです。
イエス・キリストの復活は永遠のいのちの保証
神の救いの計画であるイエス・キリストを心に受け入れることによって、神は私たちを罪のないものと見てくださいます。今の私たちの不完全な姿を見ないで、イエス・キリストの完全な姿を私たちの上に見てくださるからです。
イエス・キリストにあって生きる私たちは、すでに、栄光ある復活の姿で神の前に見られているのです。同じ姿に復活することが約束されているからです。
ですから、私たちの救いが完成して神に受け入れられるものとなるためには、イエス・キリストの復活がその保証であり、なくてはならないのです。
イエス・キリストを今心に持っているなら、あなたもイエス・キリストと同じ復活の姿で神に見られているのです。