No. 200306
エペソ人への手紙1章
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。
またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1章10-14節)
エペソの町は偶像に満ちていました。あらゆるところに偶像がひしめくように置かれており、町全体が偶像によって生計を立てているありさまでした。
エペソのクリスチャンは多くの偶像の神々の中から救われて、唯一の神である、救い主イエス・キリストの福音だけを信じるようになったのです。
ですから、パウロがエペソのクリスチャンたちに手紙を書いたとき、イエス・キリストによる救いの計画という福音の偉大さと、それを成し遂げられた唯一の神に向けてエペソの人々の目を開かせました。
日本も偶像が満ちていて宗教が氾濫している国です。多くの人々の信仰は純粋に創造主に向けられているのではなく、多宗教を受け入れていて信仰心が浅く広く分かれています。唯一、真の神に深く集中して向けられることがありません。
このような中から救われたクリスチャンは、エペソの人々と多くの点で共通していると言うことができます。
私たちが救われたのは神の愛による
人類は太古の昔から今に至るまで、人生の意味を見出そうとして限りない探究心を燃やし続けてきました。そして、多くの偉大な人々が現われ、哲学を形成し、悟りをひらき、教えを残しました。けれどもそれは人の側からの探求であって、人類の創造者からでたことではありません。
神は私たちに対する救いの計画を世の始まる前から立てておられました。それは、私たちが求めたからではなく、私たちに対する創造者の愛から出たものです。神は私たちが背を向け、罪を犯し、不誠実であったにもかかわらず、どこまでも愛してくださり、救いを全うしてくださる方です。
私たちはイエス・キリストにあって神の国の後継者となった
こうして、私たちは神の子イエス・キリストの命と引き換えに贖われて神の子、神の国の後継者とされているのです。私たちに神の国を受け継がせるために、神はそれほど大きな代価を払われたのです。
ここに、被造物にたいする創造主の限りない愛があらわれています。
私たちは福音を信じたことによって神の約束を聖霊によって保証された
けれどもその恵みを受けとるには私たち人間の側の意志が必要です。神は私たちの意思を無視して恵みを強制してはおられません。
神による罪からの救いは初めから計画されていたものですが、私たちの目には隠されていました。福音を聞くことによって初めて私たちは救ってくださる神の愛と決意を知ったのです。それは私たちが自分の意思と決意で神の愛を受けるためです。そして、私たちが信じたとき、その約束は私たちに保証されたのです。
その保証とは私たちが神の国を受け継ぐこと
このようして、私たちが神の国を受け継ぐものとされていることが初めて明らかになったのです。もはやそれは、単なる希望ではなく確実なものとなったのです。イエス・キリストを信じたときから心の内に住んでおられる聖霊がそれを日々私たちに保証しているからです。
私たちの祈りが聞かれることも、キリストにあって毎日心に喜びがあることも、どんな時にも神の臨在を感じて平安を持てることも、それが祝福の全てではありません。やがて私たちの上に起ころうとしていることの前味にすぎないのです。
イエス・キリストによる罪の贖いを完成して神の栄光となること
神は何故それほどまで私たちを心にとめて愛してくださるのでしょう。それは私たちによって、創造者であられる神が栄光をお受けになるためです。神は神としてあがめられ、その偉大な栄光をほめたたえられるべきです。
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩篇8篇3-5節)
せっかく自由意志を与えられたのに、その自由意志で神にそむくことを選んで罪に陥ってしまった人類を、御子の命という大きな代価を支払って贖ってくださった神の愛と決意は、贖われた者によって永遠にほめたたえられるべきです。神の栄光をほめたたえることは、造られた者たちのつとめです。自然界がいかに、その手本を示していることでしょう。造られたものの美しさと調和が、造られた方の偉大さを何と雄弁に語っていることでしょう。
それならなおさらのこと、私たちは造られただけでなく、神へのそむきの罪さえ贖われた者として、全ての被造物のかしらにふさわしく、創造者の栄光をあらわし、ほめたたえる者となるべきです。