祝福のメッセージ:2003ー07

No. 200307

信仰による義(ローマ人への手紙8章)

 

 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
(ローマ人への手紙8章1、2節)

 パウロはローマ人への手紙の中で信仰による義(信仰によって神が私たちを正しいと見てくださること)について力を込めて教えています。


自分の行ないでは神に喜ばれることはできない

 私たちは自分の正しい行ないや、自分の信仰心によって神に満足していただくのではありません。人が正しいとか正しくないとか言っても、それはその人の判断によるものであって神の目に正しいとは限らないからです。

 信仰心についても同様です。何が神に喜ばれる信仰か分からないまま信じていても意味がないからです。信仰心と言えるようなものなら誰でも持っています。けれども、それが神に喜ばれ受け入れられるとは限りません。行ないでも信仰でも自分から出たものでは神の前に義と認めていただくことはできないのです。

 では、パウロが言う信仰によって義と認められるとはどういう意味でしょう。人は神に認めていただけるほどの何が出来ると言うのでしょう。

 私たちには何も出来ないのです。

キリストの行ないは神に喜ばれた

 肉にある者は神を喜ばせることができません。とパウロは言っています。

 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。(ローマ8章8、9節)

 私たちには神に認めていただけるようなことは自分の力では何一つできません。けれども、私たちがイエス・キリストの行なってくださった「十字架による罪からの贖い」を受け入れて、イエス・キリストの中に隠れ、御霊の中にいるなら、イエス・キリストが死に至るまで従順であられたゆえに神に喜ばれたように、私たちもまた、キリストとともに神に喜ばれることができる、とパウロは言っているのです。これが人類を救う神のご計画です。

 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ手紙8章3、4節)

 このように、本来は、神を喜ばせることも、神に受け入れていただくことも出来ない、生まれながらの私たちを、神が喜んで受け入れてくださるのは私たちがキリストの御霊の中にいるからです。


私たちはキリストとともに神の子とされる

 キリストは私たちと同じ肉体を持って生まれましたが、神の子として歩み、神の御心を成し遂げてくださいました。ですから、もし私たちがキリストの内にいて、キリストが私たちの内にいるなら、私たちはキリストとともに神の子とされるのです。

 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。(ローマ8章10節)

 パウロはもう一歩進んで、御霊は私たちの中に住んで私たちを導き、助けて、死ぬべき体を生かしてくださると言っています。私たちの生まれながらの肉の体は悪い性質や弱さを持っていて、いつかは死ぬべきものですが、聖霊はキリストの義によって私たちを生かし、永遠のいのちを持つ者に変えてくださるのです。


キリストとともに復活し、キリストとともに永遠を受け継ぐ

 イエス・キリストを死者の中から復活させた方は、キリストを心に持っている者たちをも永遠の滅びから永遠のいのちへと救い出してくださいます。

 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8章11節)

 このようにして、私たちの内に住まわれる御霊はやがては滅びるしかなかった私たちを生かして、永遠のいのちを受け継ぐものに変えてくださるのです。


あなたは、もはや罪に定められることはありません

 イエス・キリストを信じて、キリストからの聖霊を心に持っているあなたは、もはや罪に定められることはありません。罪の法則の支配から開放されているからです。それだけではなく、罪のもたらす死の支配からも解放されて、永遠のいのちを受け継ぐ者とされているのです。

 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもだからです。(ローマ8章14節)