No. 200308
あなたの行ないが福音です
パウロが伝えたイエス・キリストの福音
新約聖書はイエス・キリストの生涯を書いた福音書と、イエス・キリストの教えを具体的に信仰生活の中に適用できるように、教会と信徒に書き送った手紙と、将来に起ころうとしていることの黙示をあらわした書によってなりたっています。教会に送られた手紙の多くは使徒パウロによって書かれました。
パウロは厳格なユダヤ教徒で、熱心な律法学者でパリサイ人でした。その熱心さは初期のクリスチャンたちを迫害して捕えたり牢に入れたり殺したりしたほどでした。けれども、イエス・キリストを信じてからは彼の生涯は変わりました。イエス・キリストを信じることによって今度は自分が迫害を受けるようになりましたが、彼はそれをむしろ喜んで耐えたのです。
パウロの福音宣教の二つの面
キリスト教神学の基礎を置いた。
パウロはキリストの教えを論理的に組み立てて、具体的に学ぶことが出来るものにしました。それによって、イエスや弟子たちから直接教えを聞いたことがない人でも、彼の手紙を読むことで福音の真髄が理解できるようになったのです。
生涯をかけて信仰の手本を示した。
パウロは学者でしたが、人に教えただけではありませんでした。彼自身の生涯がキリストの教えに従う信仰のあり方を身をもって示した生涯と言えます。
彼は「人は行ないによって救われるのではなく、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われるのである。」と強調しています。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ3章28節)
けれども、実際にはその信仰は彼の生涯をかけた信仰の行ないによって裏付けられていたのです。彼は生涯を通じて信仰を実践してその手本を示したのです。
行ないの伴う信仰
確かに、私たちが救われるためにはどんな苦行も、良い行ないを積むことも、必要ありません。救われるために必要なのはイエス・キリストを信じる信仰だけです。けれども、救われてからの信仰の行ないには大切な意味があります。信仰は行ないが伴うものだからです。行ないのない信仰はだんだんと衰えて、ついには死んでしまいます。
信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(ヤコブ2章17節)
みことばを実行する人になりなさい
もし、私たちがクリスチャンでない人と全く同じ事をし、同じ生き方をしていたら、誰が見ても違いが分かりません。心の中だけで信じているのでは、人に分からないだけでなく、時間がたつにつれて自分にも分からなくなってしまいます。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1章22節)
信仰を行ないや態度に表すことは周りの人々に対してだけでなく自分にとっても大切なことになります。特に、家族の中で福音を伝えたいと思うなら、言葉の人ではなく、行ないの人に徹底しなければ誰にも認めてもらえません。
生きた福音
言葉だけで福音を伝えるには色々な制約があります。時と場所をわきまえ、聖書を学び、質問への答えも準備していなければなりません。それでも、議論で相手の心を開くことができるとは限りません。パウロは旧約聖書に精通した律法学者でした。知識においても言葉においても、人々に教える十分な賜物を持っていました。それは誰にでも出来るものではありません。しかし、行ないによって信仰を表すことは誰にでもいつでもどこでも出来ます。イエス・キリストの教えを実践していれば、それだけで、あなたの存在そのものが生きた福音となるのです。
あなたがたは、地の塩です。世界の光です。
クリスチャンらしい塩けがなくてはいけません。世の人と全く同じではいけないのです。イエス・キリストを信じている人らしいところを持っているべきです。
永遠のいのちの灯火を隠していてはいけません。完全でなければならないのではありません。私たちが完全な人間でないことは神が一番良く知っておられます。ただ、人と違うことを恐れたり、自分の信仰を隠したりしないで、ありのままの姿でキリストに従う生き方をしていればいいのです。人々はあなたを見て、強い人は強いなりに、弱い人は弱いなりに、実際の信仰を学ぶのです。
あなたが自分の信仰をはっきりと表していれば、キリストの名に恥じないように励もうとする力がわいてきます。それによってあなた自身も成長するのです。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。 そうすれば、家にいる人々全部を照らします。(マタイ5章13-15節)