親愛なる祈りの家族のみなさん。
残暑が続き、これからもまだ、汗だくになる暑い日があるかもしれませんが、間もなくすばらしい季節がやって来ます。どうか、健康に気をつけて毎日をお過ごしください。
詩篇に「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。」と書かれています。(詩篇22篇3節)
聖なる神であられる主は、神を信じる者たちの讃美の中に座って臨在しておられるというのです。
それはどういう意味でしょう。神殿や教会なら形や空間があるために、多くの人はそこに神が臨在すると信じています。しかし、私たちの讃美や礼拝には形や空間がありません。そこに神が座するということがどうして出来るのでしょう。
神は遍在であると言われています。遍在というのは同時にどこにでも存在できることです。宇宙をお造りになった方は、その中のどこにでも存在しておられます。そればかりではなく、宇宙をお造りになったのですから宇宙を越えたところにも存在する方です。
けれども、私たちは、主が身近におられることを現実的に感じる時もあれば、それを忘れている時もあります。場所や時間や状況に制約されているからです。けれども、私たちが讃美や礼拝をする時ほかのどのような時よりも強く主の臨在を感じるのです。
そこで、この詩篇の作者ダビデは「主はわれらのさんびの上に座しておられる」と歌ったのです。
私たちはいろいろな理由で、神を讃美し神を礼拝することを軽んじがちです。時間がない、今はほかの事をしなければならない、今はその気になれない、などなど、理由はいくらでもあげられます。しかし、主を讃美し、ほめたたえることは、造られた者たちの本分です。
人は「神のために」と言って神殿を建設したり、礼拝堂を造ったりします。悪いことではありませんが、それはあくまでも人のためです。神をそんなものにお入れすることなどできないからです。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒の働き17章24、25節)
神をお入れするためには宇宙よりも大きな神殿を造らなければなりません。しかし、神は私たちの讃美の中に住まい、そこに座してくださるのです。私たちが讃美し礼拝するとき神は喜んでそれを受け入れて、そこに臨在してくださいます。ですから、私たちが時間や心を注いで神を讃美することの方が神殿や礼拝堂を建てることよりも大切なのです。被造物である小さな存在の私たちが神を讃美し、ほめたたえ、礼拝することによって、神に喜ばれ、神の臨在をそこにお迎えすることが出来るとはなんと幸いなことでしょう。
もし、私たちが日々の忙しさにまぎれて、神を思い、神を讃美する時間がないとしたら、私たちの人生にどれほどの意味があると言えるのでしょう。この世のなりわいも大切ですが、それらはやがて過ぎ去って行くものです。神をほめたたえ、神を讃美し、その臨在を身近に感じ、神をより深く知ることによって、小さな存在である私たちが神に喜ばれ、受け入れられていることを実感してこそ、私たちの人生は永遠的な意味を持つのです。
ところが、私たちはその大切さを忘れてしまうのです。つい遠ざかって何か重大なことがあるまで気がつかないでいます。自分の力ではどうしようもない大きな問題に直面してから助けを求めても、心に備えがないと神の力を実感することが出来ません。神はいつでも助けの手をのべておられますが、私たちがそれを実感できないと、それを受け取ることも平安を得ることもできないのです。ですから、私たちの讃美と礼拝の中に神の臨在をいつも感じていることはとても大切なことなのです。
ところで、あなたは風呂やシャワーがお好きですか。私はあまり好きではありませんでした。衣服を脱いだり、体を洗ったり、拭いたり、また着たり、と思うと、つい面倒になってしまいます。風呂に入らないでいては不衛生で健康にもよくないことは頭ではよく分かっていても、いざ行動しようとすると面倒でいやだったのです。つい後回しにしてしまいますが、汗臭くて周りの人に迷惑になってはいけないと思って、仕方なくシャワーを浴びたり、風呂に入ったりしました。しかし、風呂が大好きな人も大勢います。そこで、なぜ私はこんなに風呂に入るのがいやなのだろうと考えてみました。
服を脱いだり着たりするわずらわしさ、暑いお湯の不愉快な刺激、出た後も汗が止まらない不快さなどなど、私は風呂やシャワーがいやなものと考え、風呂に入る時は特別な心構えをしていたのです。しかし、風呂やシャワーには良い面がたくさんあります。べたべたした汗からの開放感、ぬるま湯にゆっくりとつかる安心感、出た後のさっぱりとした清潔感などなど、まだたくさんあります。そこで、良いことだけを考え、それを習慣にしたのです。すると、その良い面を楽しめるようになりました。
食べ物についても同じことが言えます。以前、私は魚があまり好きではなく、むしろ肉のほうが好きでした。しかし、健康のためにはその逆のほうが良いのです。少し努力が必要でしたが、そのうちに魚の良さがだんだん分かるようになりました。私は今、健康であることをとても感謝しています。
もし、自分にとって大切でためになることを実行することに困難を感じたら、いやな面はあまり深く味わおうとしないで、良い面だけをしっかりと見つめて、それを習慣にすることです。そうすると、今までいやだったことがあまり気にならなくなります。そして、今まで気づかなかった良い面が見えてきて楽しくなります。結果的にはそのような習慣が私たちを守ってくれるのです。
神を讃美し礼拝するという人生で最も大切で永遠にかかわることを、大変身近なことによって説明しました。体の管理も大切ですが、私たちの造り主であり救い主でもある神を讃美し礼拝することは、もっと重要なことです。ですから、神をほめたたえ、讃美し、礼拝し、祈ることを生活の一部として、楽しみながら毎日実行してください。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛