No. 200310
神の定めた時
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道の書3章11節)
人類は正確に時間をとらえた
人はとめどなく流れる時間を何とか計ろうとして、星の動きを見、季節を感じて、時間の変化を知るようになりました。やがて、単純な日時計を発明して時を計りましたが、だんだんと進歩して、今では、何万年に一秒も狂わない時計や、自動的に狂いをなくしてくれる電波時計のような正確な時計もあり、それらを誰でも手軽に手に入れることが出来るようになりました。
長い時間も短い時間も正確に計り、オリンピックのように1秒の百分の1さえも競うことが出来るようになったのです。けれども、それで人類は時間を征服したというわけではありません。一瞬たりとも時間を戻すことも止めることもできません。時間はなおも私たちを支配し続け、私たちはそこから逃れることはできないのです。時間をどんなに正確にとらえても、その時間がいつ始まりいつまで続くのかは誰も知らないのです。
時間を創造した方は時間を支配しておられる
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」(伝道の書3章14節)
全てのものは時間とともに移り変わり、変わらないものは何一つありません。それでは、私たちは時間の流れに身を任せて、なるようにしかならないのでしょうか。そうではありません。全てのものを変化させる時間さえもお造りになった全能の神は決して変わることがありません。私たちはこの方に向かって休まず進み続けているのです。ですから私たちの基準をその方に合わせれば全てのものが変わっても心配はないのです。
動いている電車の席を見つけるためには、プラットホームや他の電車に乗っていてはだめです。目的の電車の中に乗っていれば、どんなに速く走っていても自分の座席を見つけてそこに座ることが出来るのです。私たちが神のご計画の中に自分の場所をおいていれば、時間の流れがどんなに速くても何の恐れもなくなります。新幹線に乗っていても、ジェット旅客機に乗っていてもその速さは何の恐れも感じさせません。事実、私たちの乗っている地球は猛烈な速さで太陽の周りを回っています。けれども、誰一人その速さに恐れを感じている人はいません。みんな地球と同じ速さで宇宙を飛んでいるからです。
私たちが神のご計画の中にとどまり、その目的に沿った時間を過ごしているという確信を持っているなら自然に恐れや心配は消えていきます。
神は全てのことに時を定めておられる
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 (伝道の書3章1節)
私たちはしばしば、物事が自分の思い通りに行かないことを経験します。また、不意に思いがけない出来事が自分の身に起こるのではないかと心配をすることもあります。あるいは、どんなに祈っても祈りが聞かれないように感じることもあります。それは私たちが自分の時間表で物事を判断しているからです。自分だけで計画する場合はそれでよいのですが、神の助けを求めているときには神の時間表に従わなくてはなりません。神のなさることには神の定められた最もよい時があるからです。神の助けを求めるときや神に祈ったことについては神の時間表に任せて一切の心配をやめるべきです。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道の書3章11節)
神のなさることはすべて時にかなっています。私たちはそれを見極めることができませんが、神は初めから終わりまで完全に理解しておられるのです。ですから、神のご計画に任せてそのご計画に乗っていくことが最善なのです。
そのことを可能にするために神は私たちの心に永遠を思い、それを慕う心を与えてくださいました。永遠を思う心は神の性質の一部です。私たちに対するご自分のご計画をわからせるために、神はそれを私たちの心に植えつけてくださったのです。
考えてみると、本来永遠的な存在ではない私たちが永遠を思う心を持っていることは不思議です。それは、永遠から永遠までを手の内に納めておられる神からのみ来るものです。あなたも、永遠を思う心を持っておられますね。それは神がご自分のご計画の一部を前もってあなたに知らせるために、あなたの心に与えてくださっているものです。
それによって私たちは、理解できないこと、手に負えないこと、どうすることもできないことを神の手に委ね、同時に、私たちの理解を超えた素晴らしいことが約束されていることを知って、信仰と希望を持ち続けることが出来るのです。ですから、神を信頼する者にはいつも平安があるのす。