No. 200401
神の国を激しく奪うもの
国の範囲
私たちは一年間、世界一周祈りのマラソンをやってきました。祈ってきた国と地域の数は日本とアメリカ合衆国以外に120になりました。しかし、地球上にはまだまだたくさんの国があります。
国にはそれぞれの領土と支配の及ぶ範囲があります。大きい国もあれば小さな国もあります。その支配の及ぶ範囲がその国です。しかし、私たちの人生に影響を及ぼしているものは国や法律の支配だけではありません。私たちは日本の国に住んでいる限りは日本の法律に従い義務を果たし、権利を主張することができますが、それ以外の点では人に迷惑をかけない限り何をするにも自分の自由です。日本の国や法律は私たちの外側のことには影響力を及ぼしますが、心の中まで支配することはできません。
神の国の領域
イエスは言われました。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17章20,21節)
神の力が現実に及ぶ範囲が神の国です。私たちの心をどこまで神に支配していただくかによって私たちの心の中の神の国の広さが決まります。その権限の及ぶ範囲が国ですから、神の国も私たちの心の中においてその支配の及ぶ範囲があるからです。もし、私たちの中に神の御心に沿わないことや御心に反することがあるとするなら、そこは神の国に属してはいないのです。神はすべてのものの造り主であり全能ですからどこにでも力を及ぼすことがお出来になりますが、私たちが悔い改めて神の支配を受け入れない限り無理やりそこを支配しようとはなさいません。祈りが聞かれないのは私たちが神の支配に委ねていないためです。神に全面的に支配していただくなら、祈りが聞かれるのはごく自然のことです。
バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいた。」と言って宣教の働きを始めました。私たちが悔い改めて心を神に支配していただくためです。
天の御国は奪い取られようとしている
イエスは言われました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11章12節)
私は聖書のこの箇所を始めて読んだ時、「私たちは天の御国を求め、奪うようにしてそれを獲得する熱心さがなくてはいけないのだ。」と思いました。確かに、御国を熱心に求めることは大切です。けれども、何度かこの箇所を読んでいるうちに、イエスの教え全体とのつながりから、強調点はもう1つの面もあることが分かりました。
天の御国は悔い改めて熱心に求めることによって私たちの心の中に来るのです。誰でも熱心に求めさえすればそれを獲得することができます。御国を与えてくださることは神のみこころだからです。
けれども、天の御国は一度心に迎えればそれでよいというものではありません。私たちが熱心に求めて獲得したように、それを激しく攻めて奪い返す世の力が働いているからです。
私たちから御国を奪い取るもの
多くの人々は天の御国を軽んじ、神に心を支配していただくことをせず目先のことに心を奪われがちです。また、今の時代は特に科学技術と文明が進歩するに従って、信仰の領域がどんどん狭められようとしています。こうして人は科学の進歩と物質的豊かさが人生の全てであるかのように錯覚させられています。確かに、科学や文明の進歩はありがたいものです。昔と比べると何もかも便利で快適になりました。けれども、便利さや快適さは私たちの人生の一部分に過ぎません。それらがなくなって不便になったとしても私たちは希望を持って生き続けることが出来ます。けれども、もし人が、生きる目的や意義を失ったら生きようとする意欲もなくしてしまいます。文明の進歩や快適な生活は私たちの敵ではありませんが、それだけが人生の全てとならないように注意しないと大切な神の国の領域を奪い取られることになりかねません。このほかにも、私たちの心から神の国の領域を奪い取るものがあります。それらのものに十分警戒すべきです。
悔い改めてイエス・キリストを受け入れ神によって造り変えられた人は神の国の住民です。本当の祖国である御国を心の中に持っているからです。ですから、私たちの心の中で御国の領域を世の何ものによっても攻められ、奪い返されないようにしましょう。むしろ、神が支配してくださる御国の領域を心いっぱいに広げていただくために、私たちの心の全てを神に支配していただこうではありませんか。