祈りの家族への手紙:2004-02


 親愛なる祈りの家族のみなさん。

 イラクでは毎日のように自爆テロが行なわれ大勢の人が犠牲になっています。そこに住む人々は、「この次はいつ自分が犠牲になるかわからない。」という不安の中で毎日を過ごしています。イラク市民、米軍の兵士たち、パレスチナの警察官たち、復興支援のために熱心に働いている人々、その他にも、世界中でテロの標的になりそうな地域や立場にいる人々や航空会社の職員たちがいます。彼らは今どんな気持ちでいることでしょう。それでも、人々は互いに傷つけ合い、報復し合い、毎日何人もの尊い命が奪われ続け、多くの人を不安と恐怖の中に落とし入れているのです。このように、憎み合うことや復讐心を持つことは大勢の人に限りなく大きな痛みを与えることです。

 神は「復讐はわたしのすることである。」と言われました。

 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」(ローマ12章19節)

 なぜ人は公平な裁きをなさる神に全てを任せることが出来ないのでしょうか。

 報復はただ単に中東やアラブだけの問題ではありません。私たちの家庭や職場でも毎日起こっています。不当な仕打ちを受けた時それに対して応分のお返しをしたい、出来たらそれ以上に仕返しをしたいという気持ちは誰にでもあります。

 不当と思われることをされたり言われたりしたことを根に持って、どのように仕返しをしようかと何時間も無駄な時を過ごすことはありませんか。主はあなたのためにそれを心配して「復讐はわたしに任せておきなさい。平安を奪われてはいけません。」と言われるのです。

 人には誰にでも正義感というものがあって、悪をそのままにしておくことが出来ないのです。それゆえに復讐もある程度は正当化出来ると考えるのです。人を裁く場合も同様です。正義を求める思いが強いために、悪をそのままにはしておけないのです。私たちは正義を大切にするように造られているのです。私たちは神に似たものとして造られていて、正義を愛することは神の性質の一部なのです。けれども、しばしばそれが大きな問題を生み出し、他の人々だけでなく、自分自身をも苦しめる結果になります。なぜなら、人間の正義感は罪によってゆがめられており、必ずしもいつも正しい判断ができるというわけではないからです。あまりにもしばしば自分中心的か、自分の周りのことしか考えられないのです。特に自分の利害がかかかわっている場合にはなおさら公平な判断が出来ません。それゆえ、始めから復讐や裁きは神に任せておくべきなのです。

 イエスは山上の垂訓(マタイ5章)の中でそれを大変よいことばで教えています。

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
 (マタイ5章9節)

 復讐が大きな悲しみを生むことは毎日のニュースから良く分かります。人を裁くことも、ある意味では復讐と同じです。悪と言われていることに対して正当な罰で報いをすることだからです。

 最近青少年の犯罪に対して厳しく臨むという考え方が定着してきました。悪質な犯罪に対する刑罰が大幅に引き上げられようとしています。それは犯罪抑止のためであると言われています。すなわち、それによって犯罪を犯す人を少なくするためです。

 けれども、青少年の犯罪が増加したのは、彼らが愛されることや人を愛すること、赦されることや人を赦すことを教えられてこなかったからではないでしょうか。大人たちが良い手本を見せていなかったのかもしれません。刑罰を重くするだけではそれを補うことは出来ません。

 イエスは言われました。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章44節)それはとても難しいことです。しかし、イエスは私たちのためを思ってそう言われたのです。

 イエスはまた「七たびを七十倍するまで赦しなさい。」(マタイ18章22節)とも言われました。私たちの罪も神によって赦されているからです。私たちが赦された罪の重さはそれほど大きなものだったのです。正義の神の目から見れば永遠の滅びに定められても当然だったのです。しかし、神はその罪を赦してくださいました。そのことによって、私たちは今、神との平和を得ているのです。

 平和を造ることは赦すことです。他人に対して寛大になることです。復讐や裁きを神にゆだねて、その人のために愛を注いで祈ることです。

 神は寛大な方であり、赦す方であり、愛の方です。私たちはそのような性質の神に似たものとして造られたのです。ただ、罪によってその性質がだいなしになってしまったのです。しかし、イエスは十字架の死によって、命をかけて罪を取り除いてくださいました。それによって私たちは再び神の子どもとされているのです。ですから、神に習う者となることが出来るのです。そうすれば、私たちはまた神に似た者となれるのです。

 最近私たちに3番目の孫が与えられました。子どもは親に似るものです。その子どもである孫も、どこか似たところを持っています。「目がおじいちゃんに似ているね」と言われると嬉しいものです。

 私は子供たちがただ外側の形だけではなく私の心を受け継いでほしいと願っています。それには時間がかかります。少しづつ時間をかけてなるべく良いところだけを見習ってほしいと思っています。

 私たちはどれだけ神に似た性質に近づいているでしょうか。私たちが神の品性を少しでも多く受け継ぐことを、父なる神はどんなにか大きな喜びを持って待っていてくださることでしょう。ですから決して急ぐ必要はありません。一歩一歩主に習う者となれば良いのです。神は人間の親よりもはるかに忍耐深く私たちの成長を見守ってくださいます。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛