No. 200402
三位一体
神は唯一である
一般的に言って、日本人はたくさんの神々をつくり出してそれを拝んだり祈ったりしているため、神が唯一であり全能であることをなかなか理解できません。神が全知全能なら大勢あってはおかしいことは子どもにも分かります。
聖書は初めから神は唯一であると教えています。
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。(申命記6章4節)
イエスご自身もそのことばを裏づけて神は唯一であると言われました。
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。」(マルコ12章29、30節)
けれども、神との交流が成り立っていなければ、唯一であり全能であられる神を理解することは誰にも出来ません。目で見ることも手でさわることも出来ない全能の神との交流はただ信仰によってのみ可能です。ですから、信仰が無ければ神が存在するという事実さえも分からないのです。その信仰も神の側から可能にしてくださっています。
神は色々な方法で人にご自分を現わそうとされた
まず、全てのものの源である全能の神としてイスラエル民族を通してご自分を現わされました。これはおもに旧約聖書によって明らかにされています。
次に、人類を救うために十字架で罪の代価を支払うためにひとりの人間の姿を持ったイエス・キリストとしてこの世に来られました。
さらに、私たちの信仰を励まし教え導くために、聖霊として私たちの心に住んでくださいます
唯一の神がこのように色々な姿と形で人との接点を持ってくださいました。神はあまりにも大きい方であるために、私たちの限られた知恵では全体を把握しきれず、多様性を持った形でしか理解できないのです。
聖書は「神は唯一である」とはっきりと言っていますが、同時にしばしばご自分を「我々」と言われました。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰せられた。(創世記1章26節)
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。(創世記3章22節)
このように神がご自分を複数で呼ばれることは、現れ方の多様性というだけでは十分に説明できません。それでも神は唯一なのでしょうか。
三つであって一つ
「三位一体」という言葉は聖書のどこにも出てきませんが聖書全体があらゆるところで「神は三つの品格を持ち唯一人である」ことを示唆しています。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1章1節)
さらに読み進んでいくとわかりますが、この「ことば」とはイエス・キリストのことです。「ことばは神とともにあった」というのですから、神とは別の存在だったことになります。けれどもすぐ次に「ことばは神であった」と言っています。ここに「二つでありながら一つ」という特殊な唯一性が紹介されています。イエスご自身のことばも、そのことを裏づけています。
「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10章30節)
さらに、イエスの名によって神がお遣わしになった聖霊を加えて、父、子、聖霊を三位一体と言います。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14章26節)
私たちは三位一体の神をどのように受けとめたらよいのでしょう
祈るとき、私たちはイエス・キリストの名によって父なる神に祈ります。聖霊は私たちに祈りを教え、導き、とりなしてくださるのです。
三位一体の教えは神の性質と姿を私たちにとって最も身近な形で表現しています。それによって、被造物の一つである小さな私たちが、目には見えず、あまりにも偉大で近寄りがたい神を心に受け入れて、日々交わりを持つことが出来るのです。