No. 200403
隠れた所で見ている神
人に認められたい
誰でも多かれ少なかれ人に認められたいと言う気持ちを持っています。そのこと自体は決して悪いことではありません。自己満足ではなく客観的に人に認められるような質の高さを目指して努力することは良いことです。
イエスが気をつけなさいと言われるのは、はじめから見せかけのための善行を企てることです。それはどんなに良いことをしているように見えてもコマーシャルと同じで、あくまでも自分の利益のためです。
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6章1節)
良い行ないにたいする価値のある本当の報いは人から来るものではなく神から来るものです。なぜなら、あなたのためになることを一番よく知っておられる良い方はただ神だけだからです。
隠れた所で見ておられるあなたの父
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6章4節、6節)
利害関係が複雑にいり込んでいる中で良い行ないにたいする純粋な動機を持つことはとても難しいことです。それでも、純粋な心でよい行ないをしたいという願いを持っている人も少なくないと思います。そこでイエスは「隠れた所で見ておられるあなたの父に対して行いなさい」と言われるのです。
神は私たちの目には見えませんが現実に存在する方です。一方、私たちの行ないは目に見える行動と目に見えない動機から成り立っています。人にはその一方だけしか見えませんが、神はその両方を見ておられるのです。
もし、私たちが目に見えない神を本当に信じていなければ、私たちの行ないはいつでも目に見える部分だけにしか意味を感じなくなってしまいます。すると、自然に人に見せることが行ないの中心になってしまいます。そこで、イエスは言われました。
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい
祈りについても同様です。祈りを人に見せるために行なう人はいないかもしれません。ここでイエスが言われるのは、祈りだけではなく、信仰の持ち方全体についてです。人の目に立派に見える信仰が本当の信仰だと思ってはいけません。
全てのことを見抜いておられる本当の神に対する信仰は良い面も悪い面も全て正直に表された現実的なものです。神の前では決して着飾る必要はありませんが、何一つ隠すことも出来ません。ですから必ずしも立派な信仰でなくてもよいのです。真実でありのままに少しずつでも成長する、そういう信仰を持とうではありませんか。
人前の祈り
パリサイ人たちは見せかけの信仰で人前で祈っていました。少しでも立派に見えて、多くの尊敬を得ようとしていたからです。そういう祈りは神に向けた祈りではありません。
人前では決して祈ってはいけないと言う意味ではありません。イエスご自身も人々の見ているところで祈られたことが何度もあります。最後の晩餐には弟子たちの前で長い祈りをなさったことがヨハネの福音書17章に書かれています。
また、互いに祈り合うことは大切です。私たちは多くの人から祈り方や神への語り方を学ぶことが出来ます。また、自分では祈れないときや、ほかの人にも一緒に祈ってほしいときに祈りを求めるのはよいことです。
その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。(ヤコブ5章14節)
ですから、私たちも一緒に集まったとき人前で祈ったり、互いに祈り合っています。また、祈りのリクエストを送って祈ってもらうことも良いことです。信仰の励ましになり、ほかの人の信仰からも学ぶことが出来るからです。
けれども、人前で祈るときにはどうしても神への語りかけではなくなってしまいやすいものです。そう感じたときには自分だけになったときに改めてもう一度祈ることをお勧めします。
隠れたところにおられる神への祈りが本当の祈りであり、目に見えない神に対して行動することが本当の信仰だからです。