祈りの家族への手紙:2004-04


 親愛なる祈りの家族の皆さん。

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 (ヘブル11章1節)

 アブラハムは信仰の父と呼ばれています。彼は神の導きに従って行き先を知らないままに故郷を出て旅路につきました。行き先も知らず、道も分からないまま故郷を離れた彼にとって頼ることが出来たのはただ神だけでした。

 「私はアブラハムのような強い信仰の人にはとうていなれない」とお思いになるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。「信仰の父」と呼ばれたアブラハムの信仰は、それほど私たちからかけ離れたものだったのでしょうか。彼の信仰はいったいどのようなものだったのでしょう。

 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。

 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
 (ヘブル11章17-19節)

 アブラハムは全面的に神に信頼し、初めから100パーセント神に頼りきっていたのでしょうか。もしそうだったら、神はアブラハムを試みる必要はありませんでした。彼の心の中に戦いがあったので、自分の不信仰に打ち勝つことに大きな意味があり、彼が信仰の人と呼ばれる理由があるのです。

 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
 (創世記17章17節)

 信仰は目に見えないものを確かなこととして受取ることです。目に見えませんから、現実の状況を見て疑う心もやってきます。迷いもあるのです。しかし、疑うことはそれだけでは罪ではありません。どんなに信仰のあつい人でも、疑いとの戦いを経験します。疑いが起こってもそれに従って行動しなければ罪になりません。誘惑を受けるだけでは罪ではないと同じように、疑いが起こってもそれを行動に移さない限り、疑いの心に打ち勝って、信仰の成長に結びつけることができるのです。

 アブラハムはひとり息子のイサクを失うかも知れないと思った時、心の中で疑いと戦ったに違いありません。しかし、もし必要とあらば神は死者を復活させることさえお出来になると信じました。彼は神のみもとに腰をおろして全てのことについて神に信頼することに決めたのです。

 「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。(ローマ4章3節)

 彼は、心の中に起こる疑いの心に勝利して、全ての点で神を信じることにしました。どんなことが起ころうとも、どんな状況に陥ろうとも、どんな困難が迫ってこようとも神は必ずそこから引き上げてくださると信じ、その信仰に従って行動したのです。

 また、アブラハムは信仰に従って自分に出来る事は精いっぱい実行しました。故郷を出て約束の地に向かって旅を始めた時、神を信じているからといって、何もしないでいたのではありません。彼は出来る限りのことをして備えました。水や食料を用意し、生活を支えるために必要な家畜も大勢の僕たちも連れて行きました。らくだやテントも持っていました。それでも、厳しい砂漠の旅には何が起こるかわかりません。盗賊も出たかも知れません。大嵐に見舞われたかもしれません。突然の病気に襲われたかも知れません。そういう予期しないこと、目に見えないことに備えるには限界があります。

 自分に出来ないことは出来ないのですから、そのつど神に祈りすべてをお任せして自分に出来る限りの必要な対処をすればよいのです。

 考えてみれば私たちの人生も行き先を知らずに出た旅のようなものです。引き返すことは出来ません。かといって、すぐに目的地につけるものでもありません。予期できない色々なことが起こります。それらに備えようと努力していますが、全てのことに対処できるわけではありません。神が全てを働かせて益としてくださることを知らなかったら、不安でいっぱいに違いありません。

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8章28節)

 「すべてのこと」とは、「良いことも悪いこともどんなことでも」という意味です。あなたにとって好ましくないような状況さえも、神はそれをあなたにとって益として働かせてくださるのです。 

 信仰はそのことを信じて希望を持って生きることです。そうすればあなたもアブラハムと同じように信仰の人と呼ばれるのです。神は信じて頼り切る者を決して失望させるようなことはありません。

 今年のイースターは4月11日でした。イースターが過ぎると急に気候が変わって暖かくなります。必ず春が来ると信じて、寒い厳しい冬を耐え抜いて準備していた木々が芽生え草花があたり一面に明るく色とりどりの花を咲かせて、復活の喜びにひたります。毎年のことながらその美しさには誰もが新たな喜びを感じます。命の躍動にはいつでも感動的な美しさが伴っています。それだけ命が大切なものだからに違いありません。神はいつでも全ての良いもので私たちを満たしてくださるのです。

 命には限りない可能性があり、時が来ると驚くほどの力強さを発揮します。生きた信仰も時が来ると実を結び、大きな祝福をもたらします。私たちはその命と生きた信仰とを神から与えられているのです。神から与えられた能力を十分に発揮して、神の栄光を現わす者となろうではありませんか。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 
(テサロニケ第一3章17-19節)

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛