祝福のメッセージ:2004ー04

No. 200404

命と死と復活

 

命を大切に

 最近は日本だけではなく世界中で命を大切に思わない傾向が強くなっているのを感じます。自爆テロがその良い例です。自分の命だけではなく、大勢のほかの人々の命をも簡単に奪っているからです。

 ここ数年自殺者の数が増え続けていると言われています。命を軽く考える人々が増えてきたのでしょうか。それとも、生きることの意味を見出しにくい世の中になってきたのでしょうか。

 人の命を軽く考えることは大変重い罪です。自殺も自分で自分の命を奪うことですから殺人と同じ大きな犯罪です。命は、神が私たち一人一人に預けて正しい管理を任せておられるものだからです。他の人のものであろうと自分のものであろうと、決してそれを粗末にしてはなりません。若者も年配者もそれぞれに与えられている命を大切に生きるべきです。


命の不思議

 命はとても不思議です。命のないものはたとえどんなに良く似せて作られていても動かないし成長もしません。命があればどんなに小さい種からでも大木に育ちます。イエスも例え話の中でこのように言われました。

 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」(マルコ4章31,32節)

 何年も前のことですが、植物学者大賀博士が2000年も前の蓮の実を発掘しました。その種を発芽させることに成功して、ついにピンク色の美しい蓮の花を咲かせることが出来ました。命がある故にそんなに古い小さな種からでも見事な花を咲かせることが出来るのです。

 命さえあれば大きく育ち、何倍にも増えるのです。しかし、命がなければどんなに上手に育てようとしても決して成長することも増えることもありません。

 全ての物が初めから命を持っていたわけではありません。どんな命ももともとは命のない土のちりの成分から成り立っているのです。その物質に命が与えられると、物質が互いに目的を持って働き合って命を支えるものとなるのです。

命を与えた方

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)

 私たちに与えられている命は私たちのものではなく神から与えられたものです。私たちはそれを正しく管理し大きく育て、時が来たらそれを与えてくださった方にお返ししなければなりません。私たちは今の命を永遠に持ち続ける事は出来ません。神はご自分の子どもたちにもっと良い物を用意しておられるからです。

 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道の書12章7節)

 神がご自分のもとに来る者たちに用意しておられる別のいのちとは復活による新しいいのちです。復活のいのちは永遠のいのちです。

 「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6章39,40節)


復活のいのち

 聖霊に導かれてイエスを自分の主として受け入れた者たちを神は一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせてくださるのです。

 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)

 私たちの罪をあがなうためには神の子イエス・キリストが十字架の上で身代わりに死んでくださることが必要でした。私たちは確かに罪を赦されました。それは大きな恵みです。しかし、それだけで私たちは完成したわけではありません。実際、神を信じていても罪を犯してしまう弱さを私たちはみんな持っています。憐れみ深い神が悔い改める機会を与えてくださるので、心から罪を悔い改めるなら赦されます。けれども、罪の性質が完全に消えるわけではありません。この肉体において生きる限りは罪の性質と戦い続けるのです。

 しかし、復活のときその戦いは終わります。私たちは完成され、しみも傷も弱さもなく、もはや罪の誘惑を受けることさえありません。復活は完全ないのちの始まりだからです。