祝福のメッセージ:2004ー07

No. 200407

神の恵みの届かない場所

 

神に見捨てられたと感じるとき

 神の恵みを勘違いして理解している人がいます。神の恵みをあたかも私たちが人に親切にしたり、優しい心を持ったりするのと同じように考えて、私は神に見捨てられてしまったのではないかと思うのです。人は親切にしたら当然感謝されるものと思います。感謝されないともう親切にするのをやめてしまったり、逆に怒ったり恨んだりすることさえあります。けれども神の恵みはそんなものとは違います。たとえ私たちが不忠実であっても神の恵みは変わりません。私たちが神を神と思わない罪びとであったときにさえ、神の愛は私たちに注がれていました。

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5章8節)

 ですから、どんな理由があるにせよ神に見捨てられたと感じることは大きな間違いです。それは、神の愛をあまりにも小さく考え過ぎているからです。

 あなたがどんな大きな失敗をしたとしても神があなたを見捨てるようなことは決してありません。むしろ、そういう時にこそいっそうあなたを力づけて立ち直ることが出来るように導いてくださいます。


神を認めたくない人

世の中には神の存在を認めたくない人がいます。機会があれば神はいないと思い込もうとします。けれども、神の恵みはそういう人々にも注がれます。どんな人でも神の大きな恵みの外にいるわけではありません。たとえ今は神を認めず信じることもしない人に対しても神は忍耐をして、信じる心を持つことが出来る時まで待ってくださいます。そういう人もやがて時が来ればさまざまな経験や数々の困難を通して神の愛を知るようになるからです。私はそういう人を大勢知っています。


神が無理やりには立ち入らないところ

 けれども、確かに神の恵みが届かないところがあります。それは遠い宇宙の果てではありません。たとえどんなに遠い宇宙のかなたであっても神の恵みは隅々にまでいき届いていて、そこから何億年もかけてやっと今届く星の光の中にさえも恵みが満ちています。その小さな光を見たとき、私たちは神の思いやりと愛を感じることが出来るのです。

では、神の恵みの届かないところとはいったいどこでしょう。

それは、神を拒み続ける心です。神の恵みを恵みとして受けることを拒むなら神の恵みはその人には届きません。何か大きな失敗を犯したり、とんでもない悪いことをしてしまったりしたからではありません。神の恵みはどんな悪人にも注がれています。神の恵みが届かない唯一つの場所、それは、はっきりと自分の意思で神の恵みを拒む心だけです。どんなに大きな恵みがそこにあってもそれを心に受け入れることを拒むならその恵みはその人のものにはならないのです。

 私は子どもの頃、「冥王星から見た太陽」という絵を見てとても驚いたことがありました。そこでは太陽は周りにあるたくさんの普通の星より少しは大きく輝いていましたが、あまりにも遠くにあって、いつもの明るさや暖かさを与えるほどではありませんでした。まして、熱や大きなエネルギーを感じることも出来ません。あたりは青白い闇に包まれて凍り付いていました。太陽はあまりにも遠くてその恩恵を示す命の躍動は何一つ感じられません。そんなところに住んでいなくて良かったと思いました。

 そういう星に対しても太陽の引力は働いていて、その星がどこまでも遠くの闇の中へ離れていってしまうことはありません。

 神の恵みが届かなくなるのは距離のためではありません。まして私たちの小ささやいたらなさによるのではありません。

 人は罪を犯したり大きな失敗をしたりすれば周りの人々に迷惑をかけるだけでなく自分自身が苦しみ、損失をこうむりますが、それによって神の恵みがなくなることはありません。

 神を忘れて自分勝手な道を歩んでいれば、空しさや失望を感じ、貴重な時間を無駄にしたり、困難に立ち向かう力や勇気を十分に発揮できず不安になったりするでしょうが、それによって神の恵みがなくなってしまったわけではありません。悔い改めてたち帰ったとき、神の恵みはいつでも直ぐそばにあったことに気がつきます。永遠から永遠に続く神の恵みと愛は私たちが考えるほどもろいものではありません。

 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8章35、37節)

 はっきりとした意思で拒むこと以外に神の恵みを締め出すことはありません。どうか安心してもう一歩神の恵みに近づいてください。