No. 200408
あなたを名前で呼ばれる神
名前を呼ばれること
私がアメリカに留学していたときのことです。何もかも知らないことばかりでした。回りの人々もほとんど知らない人ばかりでした。そんな時、学長がチャペルの時間に私の名前を学生たちに紹介してくれました。そのときから今まで知らなかった学生たちが私の名前を呼んで話しかけてくれるようになりました。
私は人の名前を覚えることはあまり得意ではありません。その人と親しくなるまではなかなか名前が覚えられません。ですから、私にとって名前を良く知っていることと親しさとが比例しています。名前がその人の姿や性格と密接に結びつくようになり、その人を知れば知るほどその名前がその人の人格全体を意味するようになってきます。
名前は単なる記号ではありません。特に旧約聖書に出てくる人の名前には一人一人に意味があって、全人格が名前に表わされています。ですから、聖書がここで言っている名前は戸籍上の名前のことだけではありません。
神は私たち一人一人の名前をご存知であるばかりでなく、私たちの長所も欠点も、心の奥底にある考えも、過去も未来も全て知り尽くしておられます。私たちの全人格を知った上で、私たちをその名前で呼んで語りかけてくださるのです。
恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。(イザヤ43:1)
私たちの全てを知った上で、神は私たちを「あなたはわたしのもの」と言ってくださり、特別な恵みを注いでくださいます。
子どもたちは自分の人形やペットに名前をつけて遊びます。同じ人形はたくさんあって大勢の子どもたちがその人形を持っていても、自分の人形は他のどんな人形とも違うようになるのです。
ペットも同様です。よく似たペットはたくさんありますが、自分のペットは他のどれとも違うのです。ですから名前をつけて呼び、大切にし、世界中でたった一つしかないものになるのです。その子にとっては、どんなに良く似たものが他にあっても、他のものでは代えられない大切な友達となっているからです。
神が私たちを名前で呼んでくださるとき、それ以上に特別な意味を持って呼んでくださいます。地球上には何十億という人々が住んでいます。けれども、神はあなたをたった一人しかいない大切なものと見てくださり、ねんごろに扱ってくださるのです。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。(ヨハネ10:3)
神にとってあなたはかけがえのないたった一人の友なのです。
私が通っていた小学校に誰かが小さな猪の子どもをくれました。私たちはミー子と名前をつけて皆で可愛がりました。当時は食糧難でしたが、皆が少しずつ餌を持ってきては大切に育てていました。学校には小使いのおじいさんがいました。おじいさんは自分の食べているものをミー子に分けて与えていました。
ところが、だんだん大きくなったので頑丈な鉄のおりに入れられました。誰も以前のようには可愛がらなくなりました。私たちが近づくと牙をむき出して突進して来るので、恐がって誰もおりには近づかなくなりました。それでも小使いのおじいさんだけは素手で直接餌を与えていましたが何の危害も受けませんでした。
ますます大きくなり、おりも狭くなりました。餌代、生徒の安全、などの問題が起こってきました。学校や町の偉い人たちが相談したのでしょう、ミー子は全校の生徒千人の給食にされることになりました。食糧難だった当時、子どもたちは喜んで食べました。
けれども、小使いのおじいさんは違いました。空になったミー子のおりの前でおじいさんが泣いているのを見かけました。
猪の子どもが学校につれて来られた時から、おじいさんにはこうなることが分かっていたのでしょう。ですからことのほか可愛がっていたに違いありません。ただ、可愛がる以外にはおじいさんの力ではどうにもならなかったのです。
けれども、私たち一人一人を名前で呼んで導かれる神は全知全能のお方です。どんなことでも出来ないことはありませんが、私たちとの関係を重んじるため、私たちを奴隷のように従わせたり、信じさせたりなさらず、自由意志を与えて、自分の意志で良い事を行い、神を敬い、従い、愛することを選ぶよう願っておられるのです。その選択が私たちにとって一番良いことを知っておられるからです。
あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。(申命記5章15節)
あなたを選び出し名前で呼んでくださる神との関係を深め、積み重ね、信仰を成長させてください。あなたはさらに御心に近づくことができます。あなたが神にとって特別な人であるように、神はあなたにとって特別な方となり、あなたがイエスの名を呼んで祈る時には、その名前はあなたと神との深い関係を反映するものとなります。