親愛なる祈りの家族のみなさん。
どんなことにも終わりがあります。あんなに楽しみにしていた4年に一回のオリンピックも終わりました。今年の夏もいよいよ終わりの時となりました。どんなことにもいつかは終わる時があります。けれども、その終わりの時から永遠の時が始まるのです。
あなたは今人生のどのあたりにおられると思いますか。初めの頃ですか。それとも、なかば頃ですか。あるいは既にかなり長い人生を経験してこられたでしょうか。あなたがどのあたりにおられても、少しの違いがあるだけで、誰でもいつかは終わりの時を迎えることになります。しかし、決して心配する必要はありません。神がそう定められたのですから、他の人には分からないその人だけへの配慮が必ずあるからです。
私たち現代に生きる人間はいつも時間に追われて生活しています。電車やバスの時間は決まっていて、乗り遅れないようにしなければなりません。学校や職場にも時間表があります。時計が発明されて色々なことが計画しやすくなり細かい予定ができて、生活が規則正しくなりましたが、その代わり、時間に支配されるようになってしまいました。一分刻みで忙しく働き、それでもなお能率を上げることを要求されます。オリンピックでは100分の1秒を激しく競いあっているのを何度も見ました。よほど気を強く持たないとストレスに負けてしまいます。
しかし、それが本当によい時間の使い方でしょうか。確かに、怠けてばかりいて有意義な生き方をしない人生はもったいないと思いますが、時間に完全に縛られて自由の無い生活もどこかおかしいと思います。自分を忘れるほどあわただしく時間に追われて過ごすのでもなく、ただ時間の流れに任せて無駄に過ごすのでもない、与えられた人生の時間の正しい用い方はどのようなものでしょう。
人にはそれぞれ違った長さの時間が人生に与えられています。ある人は百歳以上長生きをしますがある人は短い一生で終わることがあります。せっかく与えられた人生ですから、なるべく長く生きる方が良いのですが、一生に過ごす時間の長さに意味があるのではなくその過ごし方が大切なのです。真剣な過ごし方もあればいい加減な過ごし方もあります。自分勝手な生き方もあれば献身的な生き方もあります。どのような生き方をするかはその人が決めることですが、その生き方によって一人一人の生涯は終わりの日にはっきりと評価されることになります。
聖書にはその時は「終わりの日」または「審判の日」と書かれていますが、それは私たちを一方的に脅して悪い事をするのを防ぐためではありません。では、どんなことを意味しているのでしょう。
それは合格か不合格かを決める採点のようなものではなく、機械的に貸し借りを清算するようなものでもありません。私たちのことを全て完全に知っておられる方と一緒に私たちが人生の総まとめをする時です。ある人にとって、それは労苦へのねぎらいを受ける時となり、ある人には誉められともに喜ぶ時となることでしょう。それから、輝かしい永遠の時が始まるのです。私はその時が誰にとっても恥ずかしい思いをしなければならない時とならないよう切に願っています。
終わりの日に関する聖書の数々の記述からはっきりと言えることは、もし、私たちを完全に知っておられる方と関係がなかったら、永遠の時が始まってもその人には何も始まらないということです。
世の多くの人々は、愛と哀れみに富んだ神との関わりがどんなにすばらしいものかを知りません。私たちの魂を心の底から心配してくださっている方を拒んでいるのです。神の手を離れて永遠に消えていくことが、どんなに孤独で恐ろしいことかを知らないのです。それは「地獄の火で焼かれる」としばしば表現されていますが、永遠に捨てられることはそれよりも、もっともっと恐ろしいことです。
主が備えられた輝かしい永遠の時はイエス・キリストを心に持っている者以外には関係が無いからです。人々はその時になって初めてキリストとの関係を持っていないことの重大さを知るでしょう。そして、永遠という時間にはもはや永遠に関わりが持てないことに気づくのです。
けれどもイエス・キリストを知っている者は平安のうちにその日を待ち望んでいます。永遠の時を主とともに過ごすことの出来る喜びがそこにあることを知っているからです。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(ヨハネの黙示録22章5節)
ですから、私たちは今と言う時を大切に用いて、主とともに永遠を過ごすにふさわしい者となるよう備えようではありませんか。そうして、大いに期待しつつ胸を膨らませて日をお過ごしください。そうすれば、毎日がより一層楽しいものとなり、あなたは感謝に溢れて生き生きとしてきます。いつも心に平安を持つことが出来ます。その平安は何によっても奪われることはありません。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14章1-3節)
この望みを抱いて、あなたの心がゆるぎない平安に満ちているなら、特に大きな困難の嵐に翻弄されている人々のために祈ることも、励ますことも、助けの手を伸べることも出来るようになるのです。そうすれば、あなたの喜びはますます大きなものとなります。それこそイエス・キリストが私たちに手本を示してくださっていることです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15章11節)
今、私たちが過ごしている一日一日は永遠のために備える時です。ですから、あなたの心を救い主イエス・キリストにしっかり結び付けて、毎日を大切にしてお過ごしください。聖書のことばも聖霊も私たちがその日のために備えることを助けてくださいます。私もあなたのためにお祈りしています。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛