祝福のメッセージ:2004ー09

No. 200409

義の栄冠

 

 信仰の戦いを立派に戦い抜き、地上での使命が終りに近づいたことを感じて、使徒パウロは若いテモテに次のように書き送りました。

 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(テモテ第二4章8節)

 私もそのように言えるような生き方をしたいと願っています。

 人は働きや努力の成果が認められたとき、それをたたえる栄誉を受けることがあります。受け取る栄冠も色々あってそれぞれが違った意味を持っています。


名誉を象徴する冠

 古代オリンピックはギリシャで始まりました。その時は金メダルも銀メダルもありませんでした。勝利者にはオリーブの小枝で作った輪が頭に載せられただけでした。それが、命がけで戦った人への最高の栄誉を表す冠となったのです。

 21世紀で最初のオリンピックもやはりギリシャで今年行なわれました。

 勝利者にはメダルとは別に古代オリンピックの時と同じように、頭にオリーブの冠がかぶせられました。オリーブの葉は枯れますがその栄誉は残ります。

王位を象徴する冠

 国王がその位に着く時、戴冠式という儀式が行なわれます。頭に冠を載せて、その人が王の位についたことを宣言するのです。それ以後は、冠をかぶっていてもいなくてもその人は王なのです。冠がその人を王にするのではなく、その人が王になったことを象徴するために頭に冠がかぶせられたのです。ですから、その冠はその儀式にふさわしく金銀や宝石をちりばめた豪華なものです。今でも豪華な王冠が博物館に残されていますが、王たちはいなくなり、その名さえも忘れられていきます。


いばらの冠

 イエスは十字架にかけられる時いばらの冠をかぶせられました。いばらと聞くと、ただチクチクするだけのように思いますが、実際には手のひらを貫くほど長く鋭いとげを持った植物のことです。イエスが王として全ての人を治めることが、地上では痛みと屈辱と死をともなうものであったことをいばらが物語っています。

 総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。(マタイ27章11、29節)

 いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

 イエスは地上の王たちのように豪華な王冠をかぶることによって民衆に君臨する王になられたのではありません。むしろ仕える者となられました。私たちの人生にさまざまな問題や苦しみや悲しみをもたらし、ついには永遠の死に至らせる原因となっている罪を取り除くために、私たちの罪をご自分のものとして負い、十字架の上で私たちの身代わりに死んでくださいました。イエスはそのようにして私たちの王となられたのです。そのしるしはいばらの冠でした。

 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(へブル2章9節)


目に見えない冠

 金銀宝石をちりばめた王の冠も、オリーブの枝だけで作った粗末な冠も目に見える物によって目に見えないものを象徴しているのです。象徴されているものの価値は見える物よりもはるかに勝っています。

 けれども、それも永遠に続くものではありません。王冠や金メダルは残っても、王位は失われ、栄誉も忘れられていきます。けれども永遠に変わらないものがあります。それは神の与える朽ちることのない冠です。

 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。(コリント第一9章25節)

 オリンピックは終わりましたが私たちの霊的なオリンピックは今も続いています。オリンピック競技ではどんなに実力が接近していても金メダルを受けるのはただ1人又は1チームだけです。しかし、義の冠は主が来られることを心から待ち望んでいる全ての人に与えられます。それは競って得られる勝利ではなく忍耐して待ち望んで得られる勝利だからです。

 あるオリンピック選手は3位になって銅メダルを受け取りました。けれども、世界中の人が彼のスポーツマン精神は金メダルを受けるにふさわしいと称賛しました。誰もが彼の銅メダルは金メダルよりも価値あると思ったことでしょう。

 本当に価値のある栄誉は目に見える物や手で持つことの出来る物にあるのではなく、それを受ける人をどのように評価するかによるのです。その誉れを誉れとして認める関係が成立することに価値があるのです。

 神がくださる私たちへの栄誉の冠は私たちが清く正しいためではありません。神がご自分の命を投げ出すほどに私たちを愛してくださったことを私たちが素直に信じて受け入れたことに対してです。それによって、神と私たちとの人格関係が成立します。神の救いのご計画は私たちがそれを信じて受け入れた時完成します。ですから、神がお受けになる栄冠は私たちの「信じる心」なのです。