祝福のメッセージ:2004ー11

No. 200411

祈りはすでに神に届いている

 

 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。・・・・・・』(マタイ6章7-9節)

神は私たちの願いを祈る前からご存知なら、なぜ祈るのでしょう

 イエスは「異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。」と言われました。偶像礼拝者たちはしばしば、同じ決まり文句を繰り返し繰り返し唱えることによって、敬虔な気持ちになったかのような思い違いをしています。

 生きておられる真実の神は全知全能の神ですから、私たちの心の中におこることをすべて知っておられます。ですから、私たちが祈る前から私たちの心の中を見通しておられるのです。

 神が私たちのことをすべて知っておられるのなら、私たちはなぜ祈る必要があるのでしょう。祈らなくても、私たちがどんな問題に悩み、何を願っているのかすべてわかっているはずです。それでも祈りは大切です。神は私たちが祈ることを願っておられます。

 イエスは「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先にあなたがたに必要なものを知っておられる」と言われましたが「だから祈らなくてもよい」とは言われませんでした。むしろ「だから、こう祈りなさい」と言われました。
 ですから、神がいかに私たちの心の中を見抜いておられても、なお祈ることは大切であり、私たちが祈ることを求めておられます。

祈りは私たちの心を問題の本質に向き合わせてくれる

 祈ることによって、私たちは自分が持っている問題に対して真剣に向き合うのです。問題を避けたり、無視したり、逃げたりしないで、その問題がどんなものかをよりよく考えるようになります。祈ることによって私たちはその問題と真剣に向き合い、対決するのです。

 もし、それがあなたの上に起こるのを神がお許しになったのなら、そこには何かの良い目的があってのことです。その恩恵を受け取ることをしないで、苦しみだけを受け取るのは得策ではありません。

祈りは私たちの目を神の御心に向け、対話の道を開く

 祈りは自分の心の鍛錬や瞑想ではありません。祈るとき私たちは神を信じ神に向かって祈るのです。何を祈るかよりも、誰に祈っているのかがもっと大切です。自分の中に閉じこもらないで、語りかけている相手のことを考えつつ相手の言葉にも耳を傾けてください。心を神に向けて神に語りかけるなら、神もあなたに語りかけてくださいます。その声は耳には聞こえないかもしれませんが、あなたの心には届きます。

 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。 (ヤコブ4章8節)


神は私たちの祈りを求めておられる

 祈りはしばしば神への願いであるとともに感謝であり讃美であり礼拝です。

 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4章24節)

 人は誰でも自分の力にはあまる出来事、自分ではどうすることも出来ないことに直面します。そのとき私たちはよりいっそう神に目を向けるようになります。ですから、困難は私たちの心を神に向けさせてくれると言うことができます。

 私たちは罪の性質を持っているので、罪を犯したり、問題を起こしたりします。ですから、私たちの経験する問題や困難は私たちが罪の性質を持っているゆえに起こるのです。直接的には自分が引き起こした問題ではないことでも、人類全体の罪の性質に原因があるからです。決して神が問題をもたらすのではありません。けれども、私たちがそれらの問題のため神に近づき、神に祈るとき、神はその祈りを聞いて私たちを助けてくださいます。

 直接自分が引き起こした問題であっても、そうでない問題でも、そのまま苦しみ続けることは神の御心ではありません。

 神は私たちが祈ることを求めておられるからです。私たちを創造された方は私たちの経験する問題はどんなことでも全てご存知です。ですから、私たちの祈りはこの方だけに向けられるべきです。

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7章7節)