No. 200501
救いの確信を得るために
救われているという確信をもって生きるのと、確信を持たずに生きるのとでは毎日の生活が大きく違ってきます。確信のある者には平安と喜びがあるからです。
では、どうしたら救いの確信をもって、いつでも神の前に立つことができると言えるのでしょう。救いの確信を得るためには次の4つの段階を踏む必要があります。これを確認して、あなたも確かに救われていることを確信してください。
自分が罪びとであることを認めること
自分はだめだと気づかない限り、誰も救われたいとは願いません。それは、おぼれていなければ「助けて!」とは言わず、病気だと思わなければ病院に行かないのと同じです。自分が罪びとであるということに気づくまでは、誰も救い主のもとへは行きません。
自分が罪人であることを感じるかどうかではありません。しばしば、人は自分が罪人であることを感じないのです。けれども、神は、全ての人は罪人であると言っておられます。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・
(ローマ3章23節)
自分で自分を救うことは出来ないことを認めること
宗教心を持ったり、教会に通ったり、洗礼を受けたり、献金をしたり、その他の宗教行事に参加することなどで自分を救うことが出来ると思ってはなりません。
良い行ないや施し、道徳的にまじめな生活、あるいは、精一杯の努力をすることも、確かに良いことですがそれによっても自分を救うことは出来ません。数々の戒めを守ることでも救われません。
自分が自分の救い主になることは出来ないからです。救われるべき自分が自分を救うことは不可能です。この事をはっきりと知っておかなければなりません。すなわち、自分で何とか努力して自分を救おうという望みを捨てるまでは、救いはやってこないのです。
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3章5節)
イエス・キリストが罪を負ってくださったことを信じること
イエスは、私たちの罪の代価を全て支払ってくださいました。主は私たちの負債を返済するために、あなたの身代わりに死を引き受けてくださったのです。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53章6節)
神と私たちの間には罪という超えることの出来ない大きな隔てがありました。この隔てをイエス・キリストは取り除いて下さったのです。今はもう、この隔てはなく、神の恵みを妨げるものは何もなくなりました。神は救いを無代価で与えてくださっています。ですから、あなたも救われることが出来るのです。
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6章23節)と聖書は言っています。あなたの罪はあなたを永遠の死に定めています。しかし、イエスがあなたに代わって、永遠の死の刑罰を引き受けてくださいました。彼が身代わりに死んでくださったのです。それは、あなたが生きるためです。
イエス・キリストをあなたの救い主と信じて受け入れること
主イエスがあなたを救うためにあなたに代わってあなたの罪を背負い、ご自分の体でその代価を引き受けて、十字架の上で死んでくださったことを信じますか。
イエスを自分の救い主として信じて受け入れるなら、神はそのような人の罪を赦し神の子となる力を与えると約束しています。
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10章43節)
1829年に起きたアメリカの郵便強盗の話は今も残っています。犯人はウイルソンとポーターという男で2人とも死刑を宣告されましたが、恩赦を受けることになりました。ウイルソンは恩赦を受けましたが、ポーターは処刑されました。彼はこの恩赦を拒否したのです。最高裁判所の判事は次のような判決によってこの恩赦を取り下げました。
「恩赦は法律に従って罰を科するのと同じ権威によって、特定の個人の罰を免除する恩恵のことである。従って、それが受理されなければ成立しない。恩赦を受けるものはこれを拒否することもできる。ひとたびこれが拒否された以上、これを強いることは出来ない。」彼は判決の通り死刑になりました。
神はあなたに恩赦を提供しておられます。あなたはこれを受けることも拒むこともできます。信じてこれを受け取りますと言ったあなたは救われているのです。