No. 200502
主は心を見る
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Iサムエル16章7節)
バック・トゥ・ザ・フューチャーという映画の中で、発明家の博士が、人が今何を考えているかを知る機械を発明しようとして見事に失敗した場面があります。人がいったい何を考えているのかを知りたいという気持ちは誰にでもあります。
直感的になら、人が考えていることが手に取るように分かる場合もあります。「今この子はお腹がすいて何か食べたいと思っている」とか、「この店員は私にもっと高いものを買わせようとしているな」などということはよく分かります。けれども、心の奥底のことまでは分かりません。
相手の気持ちが分からないばかりに、しばしば、人間関係に悲劇が起ります。夫があるいは妻が何を考えているのか、分かっているつもりだったのが実はそうではなく、気持ちの行き違いが何年も続いたため、それが癒やされるために多くの時間をかけなければならない場合があります。親子関係でも同様です。子どものために良かれと思って長年苦労してやってきたことが、実際には子どものためにならなかったり子どもを苦しめたりしていたという場合があります。どうしたらもっと人の気持ちをよく理解して適切な態度をとることが出来るのでしょう。
早くからその秘訣が分かっていたら、楽しく快適な家庭を築けることでしょう。人間関係をいつでも親密につないでいるなら、それだけで、大きな力となります。安心と平和がもたらされ、活力が生まれます。そういう関係が成り立っている家庭はどんな困難がやって来てもびくともしません。
相手の立場に立って見る
相手の立場に立ってみることを、英語では「その人の靴をはく」と言いますが、物事を自分の立場だけから考えるのではなく、相手の環境や状態に自分をおいて見るとその人の気持ちがよりいっそう分かるようになります。
これからますます国際化が進み、いろいろと違った国の人々と仲良くしていかなければなりません。言葉も習慣も考え方も違う人々と仲良くしていくためには相手の立場になって物事を考える習慣を身に着けなければならないことでしょう。
家庭の中でも同じことが言えます。夫と妻とでは立場も考え方も違っています。男女同権ではありますが、男性と女性とでは体も考え方も違うのです。ですから、違いを知った上で相手の気持ちになってあげることが理解し合える鍵です。
親子関係では世代の違いという更に大きくやっかいな隔たりがあります。しかも、その違いを超えて理解し合うことはいつの時代でも大変難しいことでした。ですから、よほどの愛と思いやりを持って相手の立場に立って見ないと対立してしまいます。若者たちは「親に話しても仕方がない」とあきらめ、大人たちは「このごろの若い者はなっていない」と決め付けてしまいます。
人間関係を親密にする鍵
この点において聖書は大変貴重で有用な忠告をしています。
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12章10節)
聖書は「人を自分よりまさっていると思いなさい」と教えていますが、たいていの場合、人はそれと逆のことを考えます。自分は正しく相手が間違っていると。しかし、おそらく相手もそう思っていることでしょう。それではいつまでたっても心を通わせることが出来ません。そこには、何が正しいことかということとは別の問題があるからです。何が真実かを知るよりも、何がお互いのためになるかを知る方が大切です。そのことを大切にしなければ、どちらが正しいかが決着しても何の役にも立ちません。かえって人間関係がもっと悪くなります。
逆に、自分の方が正しいと確信していても、相手を尊重する態度を示すなら、真実がどちらにあっても、人間関係は良い方向に向かいます。真実を明らかにすることは後でも出来ますが、人間関係を後で修復することはとても困難です。
神が、「人は罪を犯して自分で神から遠く離れて行ったのだから間違っている。反省して戻って来るまで決して赦さない。滅びるなら滅びてもしかたがない。」と言われたらどうでしょう。私たちに救いのチャンスはあったでしょうか。
むしろ、神は天の栄光を捨て、自分を低くして私たちと同じ姿になられました。それだけでなく、私たちの罪を負って罪人の一人として十字架で死なれたのです。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10章45節)
心を開く
たとえ相手の心の中が見えなくても自分の心を相手に見せることはできます。心を開いて相手に自分のことを知ってもらうことによって相手も安心して心を開くことができるようになります。相手が自分のことを分かってくれるなら、人間関係の半分までは完成したと言えます。自分のことを分かってくれていることが確信できるようになれば、もうすぐ相手のことも分かるようになります。そこまで来れば、相手も心開いてくれるようになるからです。
私たちは信仰によって自分の姿をありのまま神の前に差し出しています。神は私たちを咎めないで、愛をもって受け入れてくださることを知ったからです。たとえ咎められることがあるとしても、それは私たちのためになることを信じています。こうして、私たちは神の御心にかなったものへと変えられていくのです。私たちは一歩一歩、何が神の御心にかなって良いことかを知るようになるのです。
心を大きく開いて自分のことを何でも神に知っていただきましょう。
人間関係においても、相手を信頼して自分の心を開くことが大切です。