祝福のメッセージ:2005ー03

No. 200503


主は立ち上がって待っておられる

 

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。
(イザヤ30章18節)

待っておられる

 神は私たちの想像をはるかに超えて偉大な方です。一人の被造物に過ぎない私たちにはその全体を理解することはとうてい出来ません。私たちに分かっていることはそのうちのほんのわずかに過ぎないのです。けれども、神は私たち一人一人をご存知であり一人一人に個人的に呼びかけて、私たちが心を神に向けるのを待っておられます。

 全てのものは神の恵みの中で生かされています。神の恵みがなかったら、何一つ一瞬たりとも生きられません。命は神によって与えられたものです。イースターが近づく頃になるとことさらにそのことを強く感じます。

 私たちが神に心を向ける時には、神は私たちに普通の恵みとは違う特別な恵みを更に豊かに注がれます。私たちの心が神と通う時それが可能になるからです。神はいつもその時を待っておられるのです。

 子どもたちがまだ大学に行っていた頃、夏休みになると空港へ迎えに行くのが私の楽しみでした。久しぶりに帰って来る子どもたちをどうやって喜ばせようかと思いをめぐらしたものです。妻はご馳走を作って歓迎するという特技を持っていますが、そういう才能のない私は、ただ空港へ行って何時間でも立ち上がって背伸びしつつ姿が見えるのを待って出迎えてあげることしかできませんでした。けれども、そうすることによって、私は自分にとって子どもたちがどんなに大切な存在かを実感することができました。子どもたちも、きっと自分たちが大切に思われていることを実感したことでしょう。

 神は私たちを待っておられますが、私たちが行くのを遠くで待っておられるのではありません。愛と期待を持って、私たちを大歓迎しようとすぐ近くまで来て待ち構えておられるのです。

立ち上がられる

 神はすでに立ち上がっておられます。ただじっと私たちを待つのではなく、行動を起こしつつ私たちに恵みを注ごうとそのチャンスを待ち構えておられます。

 人類は長年神を知ろうと知恵の限りを尽くしてきました。多くの哲学者や思想家たちが、思い巡らしたり論じたりして神を理解しようとしましたが、それでもまだ神を理解する知識にまでは到達していません。何も分かっていないのと同じです。もし、私たちが神の全てを理解できたとしたら、私たちは神以上の存在ということになります。そういう神は本当の神ではありません。私たちを救うこともできません。

 神は私たちが神の高さにまで到達するのを待っておられるのではありません。私たちもいつまでたっても神の高さには届くことが出来ません。神の側から立ち上がって私たちのところに来てくださいます。実際に神は私たちのところに来てくださいました。それがイエス・キリストです。

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。
 ことばは神であった。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
 (ヨハネ1章1、14節)

 神は私たちが神を知ろうとするときに先に私たちにご自分を顕されただけではなく、私たちを祝福することにおいても先に立ち上がってくださるのです。

 多くの人々は神に願い事を聞いていただくために自分の方から何かをしなければいけないと思っていますが、神に何かをしていただくための代償など私たちには払い切れるものではありません。私たちは何もかも神から受けているのです。私たちに出来ることは子どものように両手をいっぱいに広げて素直に恵みを受け取ることです。

どのようにして恵みを与えようか

 「わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。(エレミヤ3章19節)

 「なかなか祈りが聞かれない。」とか、「神に見放されたのかも知れない。」という声をしばしば聞きます。けれども、祈りが聞かれないということは決してありません。まして、神に見放されるなどということはあり得ません。

 神は今も私たちをどのように恵もうかと待っておられ、立ち上がって用意しておられるのです。さらに、どうやって私たちを良いもので満たそうかと思案しておられます。どうして捨てておかれたりすることがあるでしょうか。

 どんな人でも、男性でも女性でも、大人でも子どもでも、老人でも、神は誰に対しても、今も、待ち構え、立ち上がり、思案しつつ、私たちに祝福と恵みを注ぐ機会を狙っておられるのです。

 神の御心は明らかです。

 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)

 安心してあなたの全てを神の手にゆだねてください。