祈りの家族への手紙:2005-08

 
 親愛なる祈りの家族のみなさん。

 先日、私は運転免許証の更新手続きをしました。これで、あと5年間は手続きをしなくてもよいと思うとほっとします。その一方、毎年交通事故によって1万人に及ぶ尊い命が失われている事を知り、安全運転を心がけなければいけないことを改めて思い知らされました。

 その時見せられたビデオでは、一瞬のうちに家族を失った人々の悲しみが切々と語られていました。一番大切にしていた者をなくした人々の嘆きはどんなにか大きいことでしょう。

 亡くなってしまった人はとても残念ですが、もう戻って来ません。残された家族の悲しみはいつまでも続くのです。それが大切な者を失うことのとてつもなく大きな痛みなのです。そのような経験はめったにありませんし、そうやたらにあってはなりませんが、誰の上にも起り得るのです。

 あなたにとって今何が一番大切ですか。それをなくさないために、どんなことが出来るでしょう。

 安全運転を心がけることは良い事ですが、それだけでは守りきれない場合もたくさんあります。人であっても物であっても、大切なものは日ごろから大切に扱う必要があります。私たちはともすると、かけがいのない家族も、友人も、いつまでもそばにいるのが当たり前のように考えがちです。けれども、それを失った時、初めてその大切さに気づくのです。私たちには多くのことは出来ませんし、不幸な出来事を未然に防ぐ力も充分にはありません。けれども、大切なものをいつも大切に扱うことを心がけることによって、それを失う悔いを少しでも和らげることは出来ます。それでも悲しみを全くなくすことは出来ません。その時には「慰められたくない。いつまでも悲しんでいたい。」とさえ感じるものです。その悲しみが大きければ大きいほど、失ったものが大切であればあるほど、そう感じます。けれども、そういうときにも、主はあなたが平安を取り戻すことを願っておらるのです。

 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4章6、7節)

 この時期になると、過去にあった数々の悲しい思い出がたくさんよみがえって来ます。あなたもそれにまつわる悲しい思い出をお持ちかも知れません。その一つ一つの教訓はいつまでも心にとめて覚えておくべき大切なことです。悲惨な戦争、人類の汚点とも言うべき原爆、航空機事故などなどです。

 どんなことであっても、悲しい出来事に対して嘆いたり悲しんだり泣いたりすることは必要です。大切なものを失った時の不幸を痛み悲しむことは当たり前です。それが外から来たことでも、自分に起因するものであっても、思う存分嘆き悲しんでいいのです。出来たら、誰かと一緒にその悲しみを分け合い、心の中から全部吐き出してください。その悲しみをいつまでも引きずって、更に大きな損失を招くことのないためです。

 ですから、人が悲しみに直面した時、その悲しみを同じように一緒に負ってあげることが大切です。

 聖書は、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12章15節)と教えています。

 私はあなたが祈りのリクエストを送ってくださる時、そのために一緒に心を合わせて祈ることを大切にしています。それだけではなく、その問題から来る困難や悲しみを一緒に感じ、一緒に経験することも主から与えられた使命だと思っています。あなたが一人で悲しむことのないためです。

 あなたが悲しみを経験する時、一人で悲しんでいるのではないことを忘れないでください。イエスは、もっと深く私たちの悲しみや痛みを知ってくださいます。

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。(イザヤ53章3節)

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4章15節)

 私たちは完全でなければいけないとか、不幸な出来事にあうことはいけないことだと考える必要はありません。喜びや感謝が現実であると同様に、大きな悲しみや痛みも現実なのです。この世も私たちも完全ではないからです。ただ、どんな時にも主に頼ることが出来ます。全てを神にお任せして悲しみから立ち上がることを学ぶことが大切です。

 イエスは言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16章33節)

 「悲しみは外に表す方がよい。」と申し上げました。けれども、悲しんでいるだけではいけないのです。その悲しみを無駄にしないで、そこから何かを学ぶことができるなら、その悲しみはむだにならず、後になって「悲しみに会ったのは私にとってよいことでした」と言うことが出来るのです。

 私たちの人生に悲しい出来事がどうしても避けられないなら、その悲しみの中から何かを学びとるしかないのです。どんなことであっても、主が承知しておられないで起こることは何一つありません。主は必ず私たちが学ぶことのできる大切なことを用意してくださっています。あなたが求めるなら、主はその悲しみをともに負ってくださり、あなたをしっかりと支えてくださいます。

 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5章4節)

 大きな悲しみに会う人は大きな慰めを得ます。主は決してあなたをお見捨てにはならないからです。それを確信していれば、何がやって来ようと平安を持ち続けることができます。あなたも、私自身もそうなれるように、私はお祈りしています。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード世界宣教団 

       日本主事 桜井 剛