祝福のメッセージ:2005ー10

No. 200510            

死は勝利にのまれた

 

マラソンの戦い

 アテネの北西にマラソンと呼ばれる平原があり、紀元前490年にペルシャ軍とギリシャ軍が戦いました。ペルシャの侵略から国を守るためにその戦いに勝利することがとても重要だったギリシャ軍は必死で戦いついに勝利しました。その勝利を伝えるために一人の若者が選ばれました。彼は42.5キロの道のりを全速力でかけ続けてギリシャ軍の勝利を伝えると、力尽きてその場に倒れて息を引き取りました。この若者の忠実さと勇気を称え、それを記念して、今でも42.5キロ走るマラソン競技が残っています。
 パウロは自分の人生をこのマラソンにたとえています。

 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。(テモテへの第二の手紙4章7節)


ほふられようとしている羊

 今では住宅が混み合ってきたためになくなりましたが、しばらく前までは、私の家の近くに食肉処理工場があって、朝早くから運び込まれてくる豚たちの悲痛な鳴き声が聞こえてきたものです。彼らはその雰囲気から自分たちの身に起ころうとしていることを感じて、大騒ぎしていたに違いありません。

 「人間も同じようなものだ。あくせくと働いて、年をとったらひとり淋しく死を待つだけだ。」と言う人がありますが、それは大きな間違いです。確かに私たちには人生を力いっぱい生きぬく責任がありますが、それだけではありません。その後に続く栄光の時が約束されているのです。立派に生き抜く責任とともに、それによって報いを受けるという希望を持っているために、生きることにも死ぬことにも意味があり、勇気と希望が持てるのです。しかし、どのように生き、どのような報いを受けるかはその人しだいです。

 聖書は人を、今まさにほふられ、殺されようとしている羊にたとえています。

 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。(ローマ8章36節)

圧倒的な勝利者

 けれども聖書はそこで終わってはいません。それには続きがあります。

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8章37節)

 私たちは辛うじて勝利するというのではありません。余裕を持って圧倒的に勝利するのです。先頭を走ってきたランナーが「まだまだ走れるよ」と言って観衆に向かって笑顔で手を振りながらゴールインするようなものです。それが、キリストとともに生きる勝利者の人生です。


死は勝利にのまれた

 圧倒的な勝利者として余裕を持って人生を生きている人にとって、死はもはや何の力もありません。恐れることも心配することもありません。むしろ、今生かされていることに喜びを感じつつ、有意義に過ごすことができるのです。

 死に定められていた罪人である私たちのために、イエス・キリストが罪を贖い、死を打ち破って復活し、信じる者たち全てに永遠の命を与えてくださったことによって、死は終わりではなく、もはや何の力もなくなったのです。

 死は人生の終着駅ではなくなりました。そこに新しくレールが敷かれたため、通過点のひとつとなって、そこからもっと優れたことが始まるのです。私たちはキリストとともに勝利者となって、死によって朽ちはてることのない永遠なるものを身に付けているからです。

 ですから、この希望を抱いて、キリストによって贖われた者らしく、信仰と喜びと平安をいつも持ち続けていてください。

しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、

「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。」

「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(コリント第一 15章54,55、58節)