No. 200511
王の王、主の主
本当の王
ハンバード牧師はテレビを通して話しをする時、しばしば、「あなたの全てを支配していただかない限り、イエス・キリストはあなたの本当の王ではない。」と言っていました。イエスは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われたからです。(マタイ16章24節)
けれども、自分を捨ててキリストの弟子となることは、実際にはどうすることなのでしょう。この言葉に対してはいろいろと解釈がほどこされていて、一概に「こうすること」とは言えません。自分を捨てることは誰にも出来ないからです。
ある人は、文字通り「全ての持ち物や全ての関係を断って、一人で貧しい生活をすることだ」と信じています。実際にそれを実行している人もいます。それはそれなりに立派だと思いますが、この世に生かされている間は、家族や他の人との関係の中でキリストを主の主として従って生きる生き方があると私は思います。
キリストの弟子
イエスが「自分を捨てて」と言われたのは、私たちを束縛している欲求や感情も含めて、私たちを束縛する全ての妨げから自由になることであって、決して掟として何かを行なうことではありません。強いられてでも、いやいやするのでもありません。キリストの弟子、すなわち、クリスチャンとしての人生がイエス・キリストを主として信頼するゆえに、喜びと平安に満たされるためです。それを見た人々が自分もそのような生き方をしたいと願うようになることが大切です。どんなに厳しい修練を積んでも、自分自身に喜びと平安がなければ、他の人にそれが伝わることは期待できません。何事をするにも喜びと信頼が大切です。外側をつくろってもそれは通用しません。イエス・キリストは私たちの外側を支配する王ではなく、私たちの心を治める王だからです。私たちは自分で自分を治めようとしなくてもいいのです。主に心を委ねて、私たちの心を治めていただくのです。そうすれば誰でも自然にキリストの弟子にふさわしい者になれるのです。
主は世々にわたって治められる
私たちがイエス・キリストを心の王として生きることは私たちだけにとどまりません。それによって次の世代、特に子供たちや友人などの身近な人々に大きな影響を及ぼすことになります。そのためには、キリストを主として生きる毎日の生き方がとても大切になってきます。次の世代に自分の信仰の証しや習慣を残し、人々がイエス・キリストに出会う機会をより多く持てるよう願うからです。
そのよい手本は私たちが世を去った後にも、私たちがイエス・キリストを心の王としていた姿の記憶や習慣の中に、生き続けています。それを通して、次の世代の人々はキリストの姿を見ることができるのです。
イエス・キリストはあなたの周りの人々をも治められる
一般的に日本では、一人の人がクリスチャンに出会いイエス・キリストを心に受け入れるようになることは平均して1パーセントのチャンスしかありません。それがあなたの周りでは10パーセントにも、50パーセントにもなるのです。出来たら100パーセントに限りなく近づけることが先に救われた者の役目であり特権でもあるのです。あなたの周りの人が特別に恵まれていると言うことができます。なぜなら、毎日を喜びと感謝に満ちて元気に過ごしているクリスチャン生活のすばらしさをいつも見ることができるからです。
イエスがあなたの王なら、イエスはあなたを用いてくださる
それによってあなたの家族が一人また一人とイエスのご支配の中に加えられ、親しい人々も、イエスを心の王として持つことを慕うようになることでしょう。それはあなたの毎日の生き方にかかっています。完璧なクリスチャンでなければいけないと言っているのではありません。そんなことは誰にもできません。私たちは誰でも弱さがあり、失敗もします。しかし、そんな私たちでも、イエスを主の主、王の王として従っていくとき、自然にその証しがあなたを通して表われ、すばらしい王の支配が回りにも及んでいくのです。
イエス・キリストはそのような力のある王だからです。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9章6節)