祝福のメッセージ:2006ー01

初めに、ことばがあった

No. 200601           

 

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ3章1節)

初めに

 ここで“初めに”とあるのは、旧約聖書の冒頭に書かれている「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)の中の“初めに”と同じ意味を持つことばです。

 この世界は、何のけじめもなく始めも終わりもなく、だらだらと流れてきて、その成り行きで現在に至っているのではありません。神が意思と目的を持って働きかけられた最初の瞬間があって存在し始めたのです。その瞬間を聖書は“初めに”と言っているのです。

 ですから、天地宇宙は初めから存在していたのではありません。何一つ存在していなかった時もありました。それがどのような状態だったのかは、創造されて宇宙の中の一員となっている私たちにははっきりと理解することはできません。けれども“初めに”ということばによって、宇宙が始まる以前の時があったことを理解することはできます。それが“初めに”と言われている時です。いずれにしても、この初めの時に“ことば”があったと聖書は言っています。

ことばがあった

 人がことばを発生する時、そのことばは、発生した人の意思や性格を表しています。注意して聞いていれば、聞いた人はその人の意思や目的だけでなく、その人の気持ちをも受け取ることができます。ことばによって、用件だけではなく、その人が喜んでいるのか怒っているのかも一緒に伝わってくるのです。けれども、人と人とのコミュニケーションには行き違いや誤解がつき物です。なぜなら、人のことばは伝えたい事柄そのものではなく、その代用品であり、しかもそれを完全には表現していないからです。私たちは何としばしば意志の疎通の行き違いや誤解によって苦しんでいることでしょう。

ところが、神がことばを発生される場合は全く違います。なぜなら、神は被造物ではなく、何の制約もない完全な方だからです。神のことばは表したい事柄の代用品ではなく、実態そのものです。しかも、それを完璧に伝えているのです。この“ことば”は、神を表しているだけではなく、神ご自身なのです。

ことばは神とともにあった

 ことばが神ご自身を表していることを結論として言う前に、「ことばが神とともにあった」と言っているのはなぜでしょう。それは、神ご自身の中にすでにイエス・キリストの品性があったことを意味しています。

 神がイエス・キリストを救い主として世に送られた時、神とは別の存在を“神の子”として送られたのではなく、神とともにあり、神の品性そのものであり、この神ご自身がイエス・キリストとして世にこられたのです。

ことばは神であった

 ヨハネの福音書の冒頭のことばが私たちに伝えているのは特別なメッセージです。そのメッセージは、神のご意思を伝え、神の心を伝え、神ご自身を伝えているのです。このことばによって、神は人類の救いを伝えていますが、そのことばには実態がともなっています。伝えられている事柄の実態とは、救い主イエス・キリストであり、同時に、神ご自身なのです。

 このことばは神そのものとなって私たちに送られたのです。私たちはそれを心から歓迎して受け取るべきです。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1章14節)

 人となられたイエス・キリストが神であることは私たちの常識を超えた真理です。人はそれを完全には理解できないため、しばしば論争の種となりました。ヨハネの福音書はその真理を“神のことば”として大変分かりやすく私たちに伝えてくれているのです。

 聖書はそれぞれのことばに神の意思が込められていて、そのことばをしっかりと受け止める時、そこに神ご自身の存在を感じることができます。

 そのためには、日ごろから、聖書のことばに親しみ、心にとめ、繰り返して味わい、思い巡らしてその中に伝えられている神ご自身を受け取るようにしてください。きっとすばらしいことが、目の前に開かれてくることでしょう。

 あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。(申命記11章18節)