信仰の行ない-1
No. 200603
誘惑に勝つ
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(ヤコブ1章14、21節)
試みや誘惑を受けたり感じたりしてもそれだけでは罪ではありません。誘惑は誰にもやってきます。誘惑を受けたり感じたりしない人はおそらく一人もいないでしょう。イエスも荒野で試みを受けられました。試みに会ってもそれに負けなければあなたは勝利者になれるのです。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(マタイ4章1-11節)
イエスはどのようにしてサタンの試みに勝利なさったのでしょう。多くの人々を癒し、悪霊を追い出した時のように、特別に奇跡的な力を用いて試みに勝利なさったのでしょうか。そうではなく、聖書のことばを用いてサタンの誘惑を退けられました。
荒野でイエスがお受けになった試みは、私たちが日々受けることのある誘惑や試みを代表していると言うことができます。
イエスが私たちのよく知っている聖書のことばによってこれらの試みを一つ一つ退られたのなら、私たちも心に植えつけ、蓄えた聖書のことばによって誘惑を退け、試練に打ち勝つことができるのです。
食べ物の誘惑
今の日本は飽食の時代で多くの食物が手に入ります。ですから、食べ過ぎてしまうことや、食べ物を無駄にしてしまう問題があります。食物は大切ですが、私たちの全てではありません。世界人口の90パーセントと言われている食糧難に苦しむ人々のことを思い、節度をもって厳粛な気持ちで食べ物をいただくべきです。そうすればあなたの健康も祝福されます。
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14章17節)
信仰的な高ぶりの誘惑
私たちが救われたのは神の恵みと哀れみによるのです。決して私たちの力によるのではありません。ですから、救われた私たちに価値があるのではありません。救ってくださった方に大きな愛があったのです。それが分かれば分かるほど、信仰が成長すればするほど、謙虚になって人に仕える者となるべきです。特に、家族の中で先に救われた者は、先輩になったのではなく、へりくだって仕える者となったことを忘れてはなりません。
信仰の経験や知識を高ぶってはいけません。イエスさえご自分が神の子であることを示すために神の力を用いることを拒否なさいました。(マタイ4章10節)
人からの名誉名声の誘惑
人からの誉れを受けたいという願いは誰にでもあります。人から誉れを受けることは悪いことではありません。けれども、それだけが全てになると問題が起こるのです。試合に勝つことだけが目的になると、見つからなければ不正を行ない、禁止されている薬物を使ってまで勝とうとしてしまうのです。人からの名誉だけを求めると悪の誘惑に負けてしまうのです。
彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
(ヨハネ12章43節)
けれども、神からの誉れを求めるなら、何事につけても、自然に悪を退け、神が願っておられる正しい行ないが優先されるようになります。
私はクリスチャンスクールの学生たちが、他の学校との試合に出かける時、バスの運転手として奉仕したことがありました。その時、コーチの先生が試合前の選手たちに「勝っても負けてもクリスチャンの証しとなるよう、力いっぱいフェアーな戦いをしてきなさい。」と励ましているのを聞きました。
私たちの誉れは、神から来るのです。
しかも、それは永遠に続くのです。