親愛なる祈りの家族の皆様。
陽の光が輝きを増し、まぶしく感じられるようになりました。新しい緑の葉をいっぱいに繁らせてぐんぐん成長する草や木々、次から次へと咲く色とりどりの花、元気いっぱいに活動する動物や鳥たち、この季節は何を見ても生き生きして見えます。自然界が命にあふれて堂々とした営みを私たちに見せつけているような気さえするこのごろです。
イースター(復活祭)から一ヶ月しかたっていないのに、もうすでに夏の空が見え隠れして来ました。これからはますます良い気候に恵まれるようになることでしょう。
あなたはいかがお過ごしですか。主がともにおられて自然の勢いに負けず元気に毎日をお過ごしになられるようお祈りしています。
聖書は二つの元気を私たちに教えています。ひとつは肉体的な元気、もうひとつは霊的な元気です。どちらも大切ですが、肉体的な元気には限りがあります。霊的な元気は無限に広がっています。
人の体は大変よく造られていて、その中の何か一つを見ても、知れば知るほどそのすばらしさには驚かされるばかりです。けれども、その巧妙な仕組みや働きも、年を経るとともにだんだんと衰えて、いつかは死を迎えます。どんな若い人でも、どんなに元気でも、やがて命の終る時が来ます。誰一人それを避けることはできません。愛する者を失ったことのある方なら誰でも「なぜ人は死ぬのだろう」と考えたに違いありません。私も何度か親しい者を死によって奪われた経験があります。死は残酷で、誰をも容赦しません。
死は生きているものの敵ですが、私たちにとっては全く克服できない相手ではありません。避けられない死があるなら、その向こうに希望を見出せばよいのです。もし、人が衰えるだけでいつまでも死ぬことがなければ、さらにすぐれたものに目を向けることも、それを見出すこともなかったに違いありません。キリストにある希望によって死を克服するのです。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。(へブル11章40節)
死があるから、人は死を超えたところにあるもっと優れた永遠的なものに目を向け、自分の希望を託すことができるのです。死が私たちの力の限界を知らせてくれるので、自分の力の範囲内だけにとどまることなく、私たちを造られた全能の神に心を開くことができます。死によって新しい命を生み出す力が与えられるのです。
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(ペテロ第一1章3節)
こんなことを言うと、私は死を恐れないスーパーマン(超人)のように聞こえるかも知れませんが、そんなことは決してありません。まだ、経験したことのない死を迎えることは、私にとっても不安であり、ある意味の恐れさえ感じます。けれども、それゆえに、私はよりいっそう信仰が強められ、死も永遠も支配しておられるイエス・キリストに頼る心が湧いてくるのです。
信仰を持っているからといって恐れてはいけない、とか、強くなければいけないと思う必要はありません。もともと人は弱い存在だからです。神の愛と哀れみがなかったら、大宇宙の中の小さな埃に過ぎません。けれども、神は私たちを愛してくださり、一人一人に対して遠大なご計画と生きる意味とを与えておられるのです。ですから、私たちに対する神のご計画の中の1つの段階である死は、全てが悪いことばかりではありませんし、恐れる必要もないのです。
主イエス・キリストも私たちと同じように肉体を持ち、死を経験なさったのです。そして、死を打ち破ってくださいました。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2章14、15節)
けれども、主に信頼していないと、死は私たちを恐れさせたり絶望させたり打ちのめしたりして、その奴隷にしてしまうのです。ところが、キリストの復活がある以上、キリストを信じる者に対して、死はもはや何の力もありません。「死は勝利にのまれた。」のです。(コリント第一15章54節)
現実には私たちは今生きています。ですから、命を持っていることのすばらしさに感謝し、生きることの力強さを喜びつつ生きるのです。同時にまた、肉体的な弱さや痛みを経験しつつ、それと戦いながら生きなければなりません。けれども、死を恐れつつ生きるのではなく、これらの弱さゆえにますます主に信頼し、さらに優れたものへの希望と約束を握って生き続けることができるのです。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40章30、31節)
多くの人々は、自分の体の健康を大変気にしています。世界的に栄養食品や補助栄養剤などが空前のブームになって多くの人々に用いられています。決して悪いことではありませんが、それだけに頼り切って、それだけで、あたかもいつまでも生きられるかのように錯覚してはいけません。その一方では、自分の霊的な健康にもそれ以上に心をかけるべきです。
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(テモテ第一4章8節)
霊的な栄養は聖書の言葉です。霊的な健康体操は信仰の行いです。霊的に健康を保つ良い習慣は祈りです。私たちは日々主を待ち望みつつ、新しい力を受けて、霊的な健康を保ち続けましょう。
私たちがいま生かされているのは神の大きな恵みによるのです。生きていることは死を背負っていることでもありますが、イエス・キリストはその死を打ち破り、命と死とを超えたところにある永遠のいのちを約束してくださいました。ですから、私たちは霊と肉との両面の健康を大切にして、何をするにつけても感謝を忘れず、命の限り生きることの喜びを満喫しようではありませんか。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛