祝福のメッセージ:2006ー06

信仰の行ない-4

No. 200606


希望を持つ

 信仰と希望とは切り離せない関係にあります。信仰がなければ希望を持つことが出来ませんし、希望がなければ健全な信仰が育ちません。

 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。(へブル11章8節)

 アブラハムは神が用意された約束の地はすばらしいところに違いないという希望を抱いていたために、罪に満ちた故郷の町を離れて、行き先も知らぬまま旅に出ることが出来たのです。

 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。(へブル11章24、25節)

 モーセは神の約束された神の治められる国に大きな希望を持って、エジプトの王子という地位を捨てて、神の民、イスラエル人の一人として奴隷の身分であることを選びました。イスラエルの民族はモーセの言葉に希望をいだいて、衣食住には困らなかったエジプトの地を離れて約束の地に向かって旅立ったのです。

祈りが答えられた時から始まるクリスチャンの信仰

 初代教会のクリスチャンたちは、永遠の神の国の希望を持っていたため、迫害に耐え、信仰を守り通しました。その希望は私たちに託されているのです。

 クリスチャンの信仰は栄光の未来に大きな希望を抱いた信仰であって、今の世の御利益だけを求める信仰とは違います。

 恵み深い神は、私たちが今直面するさまざまな問題にも愛をもって助け祈りに答えてくださいますが、それは、私たちがさらに大きな恵みの約束に希望を持ち続けるためです。ですから、祈りが答えられてもそれで終わりではないのです。

 ちょうど運動会で競争の途中に転んで泣いているを子どもを、親が飛び出してきて起こしてくれるようなものです。起こしてくれたのはゴールを目指して走り続けるためなのです。たとえ途中で転んでも、初めから抱いていた「ゴールまでたどり着く」という希望を最後まで持ち続けて走ってほしいからです。

 祈りが答えられるのは私たちが希望を持ち続けて信仰を守り抜くようにとの神の愛から出ているのです。


信仰による忍耐が希望を生み出し育てる

 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5章4、5節)

 忍耐は信仰からくる品性のひとつであることはすでに学びました。この忍耐によってクリスチャンとしての品性が増し加わります。クリスチャンの品性は希望によってさらに輝いたものになるのです。なぜなら、神がそこに限りない愛を注いでおられるからです。


子どもたちは希望の塊

 まだ何もわからない子どもたちと接するとき、私たちは忍耐をして子どもと同じような気持ちになって対応してあげます。子どもが好きならなおさらその忍耐はそんなに苦労なことではありません。やがて子どもたちは成長して多くのことを学び、理解するようになることを知っているからです。ですから、今はまだ分からないことばかりの幼子に希望を持って愛を注ぎ続けることが出来るのです。

 信仰は大きな希望を与えてくれるので、どんなことにも忍耐することが出来、忍耐を働かせるとますます品性が輝きます。



イエスの忍耐

 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(へブル12章12節)

 神でありながら人となって、私たちのうちで歩まれたイエスは、どんなに大きな忍耐を必要とされたことでしょう。神のことは何もわからない私たちが、自分のおろかな知恵によって何度イエスをこころみたことでしょう。小さな頭で考えた人生観を振りかざしてどんなに高慢に振舞っていたことでしょう。何度も何度も罪を正当化し、すべてを自分中心に考え、神をないがしろにしたことでしょう。

 イエスはそのようなおろかで未熟な私たちを大きな忍耐で包み、教え、導き、助け続けてくださいました。それによって、私たちは少しずつ神に愛されているものにふさわしい品性を身に着けるようになったのです。まだまだですが、希望は持てます。

 イエスが私たちに対してこんなにも忍耐してくださるのは、やがては私たちもイエスのように完全に神を理解するようになることを期待しておられるからではないでしょうか。

 そうだとしたら、それは何と大きな希望でしょう。

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(へブル12章12節)