親愛なる祈りの家族の皆様。
イエスは「わたしに何をしてほしいのか。」と言われました。 (マルコ10章51節)
神の子であるイエスにはどんなことでもお出来になります。私たちが何を願ったとしてもイエスに出来ないことは何一つありません。宇宙を創造し、あなたを生かしてくださっている全能のイエスには何でもお出来になります。そのイエスが、「わたしに何をしてほしいのか。」と言われるのです。
あなたはどうお答えになりますか。今、イエスに何をしてほしいのですか。
イエスがエリコの町から出て来られた時、そこには生まれつき盲目の人が道端に座っていました。イエスの名を聞くと「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と大声で叫びました。周りの人々は「うるさい乞食だなあ。」と言わんばかりに非難の目を向けていたに違いありません。それでも彼はあきらめずに、叫び続けました。ついにイエスの目にとまり、前につれてこられました。イエスはお尋ねになりました。「わたしに何をしてほしいのか。」盲人はバルテマイという名前でした。
イエスは全知全能の神です。この人がイエスに気が付く前から何もかもご存知でした。彼が盲目の乞食で、毎日の暮らしにも困窮し、人生に希望が持てないでいることも知っておられたことでしょう。彼に何が必要かは本人以上にイエスがよく知っておられました。それでも、イエスは「わたしに何をしてほしいのか。」とお尋ねになりました。「目が見えるようになることです。」と自分の口ではっきりと言い表すことを求めておられたのです。告白することによって心に信仰が生まれるのです。
私たちは自分で自分の必要をはっきりと神に告白する必要があります。自分が求めているのは何か、また、どのようなお方にどれほどの熱心さでそれを願っているのかをはっきりと自覚するためです。
イエスは「求めなさい」とも言われました。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
(マタイ7章7節)
熱心に求め、それを告白するのは大切なことです。求めていることが何かを知って求めるためです。
イエスがこの盲人に出会う少し前にも、ある人たちに同じように、「何をしてほしいのですか。」とお尋ねになりました。けれどもその時はこの場合と状況が違っていました。
「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(マルコ10章36-38節)
彼らはイエスと同じ地位に着きたいと願ったのです。それがどんなことか理解していませんでした。
ある人が「総理大臣になりたい」と願うなら、それは大変良い願いです。けれども、それがどんなに大変なことを伴っているかも知らなければなりません。
誰よりもたくさんのことを学ばなければなりません。正しい判断力を養い、忍耐と勤勉を尽くし、人々に尊敬されるような人格を磨かなくてはならないことでしょう。おそらく、それでも十分ではないことでしょう。それを願った人は、このような厳しさをも含めて願っているのでしょうか。
有名なスポーツ選手になりたいと願う子どもたちがたくさんいます。彼らには無限に近い可能性があります。やがて厳しい現実と戦い、自分が願ったことはこのことをも含んでいたのだということに気付きます。それでも、幾人かは初めの夢に向かって自分を鍛え困難を克服していくことでしょう。
一方、イエスの栄光の座の隣に座ることは、イエスと同じ経験をすることです。それはイエス以外の誰にも耐えられるものではありません。イエスは、人類を罪から救うために神としての地位を捨て、自分を低くし、人の姿を取り、仕える者になって、苦しみに耐え、死を受け入れて、それを克服し、復活して、神の右に座す者となったのです。生まれつき神に敵対心を持っている人類のために、自分の命をささげるまでの愛を注いでくださいました。いったい誰がその任に耐えられるでしょう。
私たちは神に何を求めてもいいのです。その時、自分が求めていることを自覚し、イエスにはそれが出来ると信じるのです。それ故、イエスは「わたしに何をしてほしいのか。」と聞かれるのです。
10人のらい病人がイエスのもとに行き10人とも癒されました。当時、らい病になったらその人の人生はもう終わったようなものでした。人々からは嫌われ、家族からも隔離され、寂しく死を待つだけでした。ところがイエスのもとに行って完全に癒され、もと通りの健康な体になったのです。どんなにうれしかったことでしょう。もう家族のところに帰れる、友達にも会える。仕事だって出来る。彼らは飛び上がって喜びました。それもそのはずです。長い間の苦しみと孤独と暗黒の人生が光の中に戻ったのです。大いに喜んでいいのです。けれども大切なことを忘れてはいけません。感謝することです。恐ろしい暗闇の人生から救い出してくださったイエスのところに帰って来て、足もとにひれ伏して感謝したのは、たった1人だけでした。(ルカ17章16節)
イエスは両手を大きく開いてあなたにこう言っておられます。 「わたしに何をしてほしいのか。」
あなたが何を求めても神はとがめだてをなさいません。求めましょう。けれども、何を求めているのかをはっきりと自覚してください。告白し、心に刻み、祈りのリクエストに書き記し、その願いがどんなことを意味しているかを考え、神があなたのためにそれをしてくださることを信じてください。そうすると思いのほか早くその祈りは答えられます。もしかしたら、もうすでに答えられているかも知れません。そのことにあなた自身が気が付いていないのかも知れないのです。
あなたが求めていることを心にとめ、神の愛に感謝し、栄光をお返しすることも忘れないで下さい。
イエスは私にも、「何をしてほしいのか。」と言われます。私はバルテマイのようにこう叫びます。「主よ私の目を開いてください。人々が心の奥で求めていることがはっきりと見えるようになるためです。人々の必要をあなたの前に告白し、同じ心でそれを求めて切に祈ることができるためです。」
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛