No. 200609
偶像の町に住む神の子たち
エペソは小アジアと呼ばれた古代ギリシャのイオニア地方(現在のトルコの西岸)にあった都市で、地中海に面していました。
この町はアルテミスやダイアナと呼ばれる女神が祭られた神殿がそびえ立つ偶像の町でしたが、パウロの伝道によって初代教会の重要な拠点となりました。
エペソの町は文化的にはいろいろな点で、今の日本とよく似ています。
世界の貿易の中心地でした。早くから政治的な秩序が確立していました。 産業技術が進んでいました。
けれども、さまざまな偶像宗教に満ちていました。
エペソにおけるパウロの伝道
パウロがエペソで伝道を始めた時、アルテミスの偶像を崇拝する人々によって猛烈な迫害を受けました。けれども、パウロは彼らの宗教を悪く言ったり侮辱したりはしませんでした。なぜなら、彼らは知らずに偶像を拝んでいたからです。パウロはアテネの偶像礼拝者たちにこのような説教をしました。
「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」(使徒17章23,24節)
クリスチャンの中には真の神への熱心のあまり、偶像礼拝者たちに敵意を持つ人がいますが、それは決して伝道には役に立ちません。特に家族の中で伝道するとき、そのような誤りに陥ると、人間関係をかえって悪くしてしまいます。
偶像礼拝に参加したり、容認したりは出来ませんが、たとえ今は偶像に心を奪われている人でも、その人の心を傷つけたり侮辱するようなことはクリスチャンの取るべき態度ではありません。
神は私たちが神を知らず、神を神としてあがめず、自分を中心にして生きていたときにも、なお忍耐を持って私たちを導いてくださいました。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5章8節)
エペソ人へのパウロの手紙
パウロがエペソにいるクリスチャンたちにあてた手紙は、希望に溢れ、喜びに満ちたものです。やがて私たちがキリストと共に受け継ぐべき栄光の地位と富の素晴らしさを伝えています。ところが、パウロがエペソのクリスチャンに宛ててそのように喜びに溢れた手紙を書いていた時、彼は牢屋に入れられ厳重に鎖につながれていました。彼にとって、今の迫害と苦しみは、これからキリストと共に受けようとしている栄誉に比べたら何でもないことのように思われたのです。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8章18節)
私たちは牢につながれているわけでもなく、また、命に危険が及ぶほどの迫害を受けているわけでもありません。何と恵まれていることでしょう。
ですから多少の困難にめげることなく、互いに祈り合い励ましあって信仰を守り抜こうではありませんか。
キリストに出会う前の私たち
パウロがエペソの人々に対してもう一つ強調していることがあります。それは、私たちがキリストに出会う前の失われた状態についてです。
それは、偶像に囲まれ、偶像礼拝の習慣の中に飲み込まれて、真の神から遠く離れた私たちの姿でした。これもまた、エペソの人々だからこそ、よく理解出来たことであり、私たちにも共通するものです。
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2章2,3節)
しかし、今は救われて、神の業を行なう者とされたのです。
神は私たちがすべき良い行ないをも用意してくださる
しばしばこんな言葉を聞くことがありませんか。「私は未熟であって、何一つクリスチャンらしい良いことが出来ません。」それは、自分の力で神に喜ばれるような良いことをしようとするからです。
私たちが神のためにどんなに大きな良い行ないをしたとしても、神はその行ないをご覧になるのではなく、私たちの心をご覧になるのです。
もし私たちが神の子らしく神に喜ばれるような良いことが出来るとしたら、それは、神がそれをさせてくださるからです。それはちょうど、小さな子どもが、お母さんに助けられてお母さんの手伝いをするようなものです。それが実際には助けにならなくても、母と子の両方に喜びを与えるのです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2章10節)
偶像の国、偶像に囲まれた家族の中で、いったいどんな良いことが出来ようか、とあきらめてはいけません。あなたのなすべき良い行ないは神が備えてくださいます。あなたはただそれを見逃すことのないように心の目を開いて見守っていてください。そして、それを見つけたら、それがどんなにささやかなことでも、ただちに実行してください。主はおおいに喜んでくださいます。