No. 200611
信仰と信仰の行ない
聖書は人は行ないによって救われるのではなく信仰によってのみ救われる、と教えています。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。だれも誇ることのないためです。(エペソ2章8節)
私たちの行ないは救いを買い取るには十分ではありません。救いや永遠のいのちはそれほど安くはありません。人が救われることは神の子のいのちに匹敵するほど高価です。誰一人それに値するほどの行ないを積むことは出来ません。けれども、神は無代価でそれをくださったのです。私たちが買い取ったのではありません。
それでは私たちには何もすることがないのでしょうか。確かに、救いを買い取るほどの行ないは誰にも出来ませんが、信仰を働かせることは出来ます。また、信仰は生き生きと働かせなければ意味がありません。
聖書は、行ないが伴わない信仰は生きた信仰ではない、と教えています。 だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(ヤコブ2章14-17節)
この言葉はあたかも「人は信仰だけでは救われない。」と言っているように聞こえます。人は救われるために何かをしなければ、信仰だけでは救われないのでしょうか。そうではありません。
救われることによって素晴しい人になれる
私たちはともすると、立派な人間にならなければ神に喜んでいただくことはできないと感じます。したがって、私はまだまだ立派なクリスチャンとはいえないので救われてはいないかもしれないと思ってしまいます。そこに大きな危険が潜んでいます。人はイエス・キリストを信じることによって救われるのであって、それだけで十分なのです。行ないが立派だから救われるのではありません。しかし、イエス・キリストを信じて救われることによって、神はあなたを立派な人と見てくださり、神にも人にも喜ばれる人間へと成長させてくださいます。
信じたらなぜ良い人になれるのか
イエス・キリストを信じた人は、キリストの霊を心の内に持っています。信じることはイエス・キリストを心に受け入れることだからです。内住の聖霊はあなたを正しい道に導いて、神の子どもと呼ばれるにふさわしい人に成長させてくださいます。
クリスチャンは自分の修業努力によって善人になるのではありません。聖霊の導きに従った行ないや生活をすることによって、自然に神の子にふさわしい人になっていくのです。
通常、人は救いを経験するまでは、良い行ないをするためには大変な努力と決意が必要です。それでもたいていはうまくいきません。けれども、キリストの霊を心の内に持っている人は、聖霊の導きと助けによって自然にそれができるようになるのです。
信仰の行ないは、心の内に住んでおられる聖霊に従った行ないです。ですから自分から出たものではありません。初めのうちは自分の意思をゆずって、神の御心を優先しようと、意思を働かせる必要があるかもしれませんが、やがて自然に自分の意思が神の御心に沿ったものとなってきます。むしろ、そこから外れることの方が難しくさえなってくるのです。
神はあなたの行ないを喜んでくださいます
あなたの意思が神の御心に沿ったものとなるとき、あなたの行ないはあなたの意思であると同時に神の御心でもあるようになります。神はそのような行いを喜んで受け入れてくださるのです。こうして、あなたの上に働いてくださった神の救いのご計画が実を結びます。その結果が誰の目にも見えてくるのです。それによって神は栄光をお受けになります。
ですから私たちの信仰の行ないは大切です。神の業が反映しているからです。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(へブル11章6節)
信仰による行ないは、それが、愛や同情から出た行ないであっても、人のために尽くす善意であっても、神の御心にそった行ないであるため、神に喜んで受け入れていただくことが出来ます。
ですから、信仰の行ないがともなった祈りは聞かれるのです。