レックス・ハンバードのテレビ番組「明日への希望」より
No. 200704
罪の苦しみから解放
今日のみことばは、詩篇55篇です。
神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。
それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。そこで私は言いました。
「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。」
これはダビデの歌です。彼は神に向かって苦しみをうったえています。彼は敵と死を恐れておののいているのです。その上彼の心を絶えず悩ませているものがあります。それは罪の意識です。つきまとって離れない不安があります。これから先いったいどうなるのか・・・この詩の中に見られるダビデの哀れな姿は詩篇23篇に見る姿とは実に対照的です。
主は私の羊飼い、私は乏しくありません。たとえ死の影の谷を歩くことがあっても私は災いを恐れません。私はとこしえにいたるまで、主の家に住まいましょう。
確かに何かが起こったのです。詩篇23篇の彼には信仰と平安と確信と永遠の希望がありました。55篇ではその様子は一変します。今日はその点についてお話したいと思っています。
さて、ダビデは宮殿の屋上にいます。当時の家にはたいてい屋上に通じる階段が付いていました。ちょうどポーチかベランダのようなものです。ダビデはそこを行きつ戻りつしています。その時一羽の鳩が飛んできて欄干に止まりました。ダビデはしばらくそれを眺めていましたが彼の動く気配で鳩は飛び立ち、力いっぱい羽ばたくと、エルサレムの町の上を一飛びして城壁を越えて、荒野のかなたへと姿を消しました。ダビデはこぼれる涙をそっと拭きました。確かに日の光がまぶしかったせいもありますが、自分の人生を思ってこぼれた涙でした。彼は思いました。
「ああ私に鳩のように翼があったら、このエルサレムの町を一飛びし城壁を飛び越えて荒野の中に憩うことができるのに。」彼は羊飼いの少年だった昔をしのびました。
詩篇23篇はその頃生まれたのです。主は私の羊飼い、と言えたあの安らぎが懐かしいのです。死の影の谷を歩んでも災いを恐れません、と言えたあの確信。私はいつまでも主の家に住まいましょう、と言えたあの希望が今の彼には全くありません。逃げ出したい思いです。
あなたも今の状況から逃げ出したいと思っていませんか。「もう一度やり直せたらいいのに」と。
では、ダビデの悩みは何だったのでしょう。まず第一に、彼を取り巻く政治的社会的な状況が彼の心に重くのしかかっていました。彼は王でした。彼がこの屋上を行きつ戻りつして思い悩み、あれこれ心配していた時、国には内乱が荒れ狂っていたのです。困ったことにその内乱の先頭に立っているのは彼の息子アブシャロムでした。王子アブシャロムが反乱軍を組織してダビデを王位から引きずり下ろし、自分が王位に着こうとくわだてました。そのための内乱でした。ダビデは強力な軍隊を持っていましたが、もし、彼がこの戦いに勝てば自分の息子の命を奪うことになるでしょう。しかし、この戦に負ければわが子の手で殺され、国はますます荒れ果てるでしょう。彼は悩みました。ああ、この状況から鳩のように逃れることさえ出来たらどんなによいことか。
今も多くの方が悩んでいます。この苦しみの中からどこかへ逃げ出したいと思っています。
過去に犯した罪のために心が痛んでいます。失業中のためかもしれません。神に従った生活をしなかったために家庭が崩壊しようとしているのかも知れません。子どもたちが家を出たまま便り一つなく、どこでどうしているのかと心配しているかも知れません。実に様々な問題があります。
健康が優れない方、病気のために苦しんでいる方もいらっしゃいますね。あなたはその苦しみから逃れたいと思っています。しかし、ダビデが鳩の翼で飛び去ることが出来なかったように、あなたもあなたを取り巻くその苦しい状況から、自分の力で逃れることは決して出来ません。たとえ、別の町に引越したところで、自分自身から逃れることは出来ません。あなたをとりまいている現実は決して変わりません。
第一の悩みは外の状況から来るものでした。しかし、第二にダビデを苦しめたのは、過去に犯した罪のための心の痛みでした。外からの苦しみだけでなく内から来る苦しみが彼にはありました。
忘れもしません。ダビデはある日この同じ屋上から町を見まわしていると、隣人の妻バテシバが水浴びをしているのが目に付きました。美しい女でした。彼は心を奪われて見ているうちに、汚れた思いがわきました。汚れた思いを大事にしていると、汚れた行いとなり、汚れた行いが罪となって人を神から引き離します。そして、良心の呵責がその人を絶えず苦しめます。王であった彼は、その権威を利用して隣人の妻を奪いました。ダビデは「姦淫してはならない」という神の掟を知っていたのですから自らの心を制して神の掟に従いきびすを返して立ち去れば罪にはならなかったのに、見ているうちに汚れた思いにかられ、ついにそれを実行したのです。その時から彼は罪の意識に苦しみました。彼は王の権力によってその女を宮殿に呼び寄せ、人妻と知りながら関係を持ったからです。彼女の夫ウリヤはその時戦場で戦っていました。そこでダビデは将軍にこう命令を送りました。「戦いが激しくなったら、ウリヤを最前線に送り出して戦死させよ」間もなく、使者が戻り、ウリヤが戦死したことを伝えました。彼はこの女を自分の妻として迎えました。姦淫の挙句、殺人までして・・・。神は天の書にそれを記録なさいました。
「ダビデ・・・姦淫、盗人、彼は他人の妻を盗んだ。姦淫してはならない、殺してはならないという掟を破って、夫を殺しその妻を奪った」こうした罪状が神の書にもれなく書き込まれました。彼の良心は絶えず痛みました。彼は思いました。「あの鳩のようにこの苦しみから逃れ、羊飼いの少年だった昔に戻りたい。あの頃の私には安らぎと確信があった。」
けれども、ダビデにはどうすることも出来なかったし、あなたも自分ではどうすることも出来ません。しかし、すばらしいお知らせがあります。そこから逃れる方法をあなたにお教えします。
イエスがカルバリの十字架の上で、命をおすてになったのは、あなたの罪が赦されるためです。あなたの罪がことごとく消し去られて、二度と思い出されることさえ、もうなくなるためです。
今、私の話を聞いておられる皆さんの中で、罪の意識に苦しんだり、いろんなことで悩んでいる方に、私はそこから逃れる方法をお教えしたいのです。神の書にはあなたの名前が書かれています。その下にあなたの罪が記録されています。神は言われました。「罪を悔い改め、聖書を読み、祈り、教会に行き、神の教えに従って生きなさい。」これが神のご命令です。しかし、神がしなさいと言われたことをあなたがしなかったら、そのことがあなたの欄に記録されます。また、神がするなと言われたのにしてしまったことも神の書に記されます。しかし、イエスが十字架にかかって死なれたのは、私たちが罪の意識から解放されるためです。罪が赦されるためです。聖書にこう書いてあります。
私たちが罪を告白すれば、真実な神はその罪を赦し全ての不義から私たちの心を清めてくださる。
今、あなたがどんな苦しみを負って生きておられても、もう問題ではありません。あなたの過去にどんなに恥ずかしい罪や失敗があったとしても、あなたがその罪を告白するなら、主は約束のごとくその罪を赦し、ことごとく清めてくださいます。
あなたのために特別にお祈りしたいのです。「主よ、全ての罪を赦してください」と、あなたも私と一緒にお祈りください。神はあなたの記録のページを真っ白にし、あなたの罪を消して、忘れてくださいます。そうすれば、あなたは罪のない者となって、あなたを苦しめている全てのものから解放されます。