レックス・ハンバードのテレビ番組「明日への希望」より
No. 200705
神の保証
私の頭には次々といろんな方々のことが浮かんで来ます。この番組が始まって30年、その間に起こった神のみわざは無数です。神は私たちの必要をことごとく満たしてくださいます。この神の約束に固くたって多くの人々が祝福を受けました。信仰によって答えを見出したのです。
あるご夫婦がうまくいかず離婚しました。二人ともイエス・キリストに頼ることを知らず、教会も聖書も知らなかったのですが、ある日、テレビで明日への希望 を見てそれぞれが信仰を持ちました。二人は和解して、もう一度結婚し、施設に預けてあった子どもたちも引き取りました。幼かった子どもたちはやがて立派に成人しました。神を恐れ、敬虔な家庭に恵まれて育ったのです。私はその一家を個人的に知っています。
神は彼らの必要を、まず、霊的な面から満たし、次に、私生活の面から満たしてくださいました。さらに、両親の愛を求めていた子どもたちの必要も満たしてくださいました。
神はあなたにも祝福を保証してくださいました。神はどんな状態の中からでもあなたを助けると保証なさいました。
癌で死のうとしていた人が「イエス・キリストの打たれた傷によって癒される」という信仰と祈りによって完全に癒され、もう15年間元気に教会に来ています。肉体的な必要が満たされたのです。
ある人が私たちの町オハイオ州アクロンに引っ越して来ました。元の家を売りに出していましたが、不動産屋が努力しても売れず、仕方なく値下げしました。それでも、買い手が付かず困っていました。ある日この人が礼拝の後で私のところに来て言いました。「神は全ての必要を満たしてくださるそうですが、私も困っているんです。しかし、こんなことを神にお願いするのは何だか気が引けるんですよ。あんまり利己的過ぎて。」
待ってください。「自分と同じように隣人を愛しなさい。」そう聖書にあります。もちろん、隣人を愛すべきですが、本当に自分を大切に出来る人は、人をも大切に出来ます。神があなたに与えると保証してくださった祝福を求めることが何で利己的ですか。
私は子どもたちが幼かった頃、アイスクリームなどをおねだりされて買ってやりました。
おねだりされるのは私にとって迷惑だったでしょうか。いいえ、子どもに楽しみだったように、私にもそれが楽しみでした。
神はあなたの必要を満たそうと待っておられます。しかし、神には神の法則があります。それについてはもう少し後でお話しましょう。
とにかく、家が売れないと言う彼に、私はこう言いました。「では、不動産屋に千ドル値上げして元の値段に戻してもらいなさい。そうして、祈って買い手を待つんです。」
それから1週間たって、彼はまた私たちの教会に来ました。礼拝の後で彼はまた私に握手を求めてこう言いました。「祈りが聞かれましたよ。千ドル値上げしたのにすぐに売れました。今手続き中で2、3日のうちにはお金が入ります。これは確かに神の助けですね。値を上げたのにこんなに早く売れたのですから。」
そうです。神は私たちの全ての必要を満たしてくださいます。神はあなたの人生に関心を持っておられ、あなたに祝福を保証なさいました。
保証されたものをどうしたらあなたの物に出来ますか。
たとえば、あなたが冷蔵庫を買って帰ったとしましょう。保証書が付いていて、そのメーカーのサインがあります。保証書によれば、その商品に何か欠陥があれば責任を持って修理してもらえるはずです。
ある日台所に行って見ると冷蔵庫が止まっていたとしましょう。あちこち調べてもどこが悪いのかさっぱり分かりません。保証つきの商品ですから動かなかったらその時こそ保証書がものを言うんですよ。その保証書をメーカーに提示さえすれば直してもらえます。無料で修理すると保証していますから。
神の場合も同様です。神は保証してくださいました。しかし、問題は行動することです。
聖書にこうあります。「得られないのは求めないからだ、求めなさい、そうしたら受けるのです。」神のことばです。
ですから、まず第一にすべきことは「必要を満たしてください」と祈ることです。
第二は必要を言い表し互いのために祈ることです。神に求めるだけでなく、必要を互いに言い表わすのです。ですから、私たちは祈りの時間を設け、祈りのリクエストを出し合っています。互いに祈りあうことが出来るように、私たちは必要を互いに言い表します。これは神が私たちに約束してくださっている祝福を受けるためです。
保証書があると言うだけでは何にもなりません。行動を起こして保証書の内容を求めなくては新しい冷蔵庫は届きません。
神はあなたに祝福を約束なさいましたが実際にその祝福を受け取るのは神の約束の上に立って行動するときです。求め、言い表わすのです。
第三は従うことです。神の御霊こそ人生に祝福をもたらすものです。神のことばに従えば神の祝福を期待することが出来ます。御霊は従う者に与えられるからです。
主は私たちの救いをカルバリーで買い取られました。主が十字架で死なれたのはあなたのためであり私のためです。しかし、まず、与えれば受けるという神の法則に従い、主に心を捧げ、信仰を捧げるべきです。その結果、イエス・キリストを私たちの主、また、救い主として受け取ることが出来ます。すると、神の御霊は従う者たちに与えられます。全能の神の超自然の力が私たちにキリストをはっきりと示し、罪を赦し、汚れを清め、神のために生きる力を与えるのです。だから求め、言い表し、従うのです。
神の法則は、与えるなら受けるということです。
創世記8章22節に、「地の続く限り種まきと刈り入れとは決してやむことがない」と記されています。種を蒔けば刈り取ります。これが法則です。
もし、一粒のとうもろこしの種を蒔くならば、何本ものとうもろこしが取れます。この法則に従えば何千倍にもなって戻って来るのです。もし、一粒の種をしまっておいたなら何も起こりません。神もご自分の法則に従っておられます。ヨハネ3章16節に、神は愛のゆえにひとり子を与えたとあります。与えなければ受けることはできません。信仰を捧げれば救いを得ます。「神はひとり子を与えて人間との交わりをもとうとなさった。」とあります。旧約聖書のマラキ書を読むと良く分かりますが、神はイスラエルの民に言われました。「私があなたのパートナーになろう。あなたに命を与え、地に雨を降らせ、太陽を照らし、穀物を実らせよう。私はあなたを人生のあらゆる面で祝福しよう。」全てを捧げて神に従うなら、神のあらゆる祝福があなたのものになります。これが神の保証です。