祝福のメッセージ:2007ー06

レックス・ハンバードのテレビ番組「明日への希望」より

No. 200706  

イエスとの出会い

 神の御霊は今私たちに語りかけておられます。あなたはその細い御声に聞き従いますか。今日、主の御許に行って祝福を受けてください。マルコの福音書3章1節から5節です。

 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。

 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。

 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

 聖書に、イエスは悪霊に押さえられた人々をことごとく癒しながら各地を巡回した、とあります。カペナウムの町で人々がしきりにうわさしていることがありました。街角でも家でもその話で持ちきりです。新しい預言者が会堂においでになり、説教なさるというのです。その日人々はイエスを迎えるためにあれこれ気遣ったに違いありません。巻物の聖書をきれいにしたり、一番上等の上着を着たり、取って置きの靴を履き、おしゃれをして出かけたに違いありません。イエスにはどこへ行く時も神から授けられた使命がありました。神が聖霊と力をお注ぎになったので、イエスは行く先々で悪魔に抑えられている人々をお癒しになりました。神が共におられたからです。

 その日のイエスの使命は会堂である人に会うことでした。その人の必要を満たすためです。イエスはいつもその使命のために働いておられます。聖書を見るとそれが良く分かります。ガリラヤ湖畔を訪れた時も誰かに出会うつもりでした。ペテロ、ヤコブ、ヨハネが網を繕っていると、主は彼らを招き、人間をとる漁師となさいました。

 サマリヤで井戸に水を汲みに来た女に会ったのにも目的がありました。彼女は世間の評判が良くない女でした。5回結婚暦があり、今は夫でもない男と暮らしています。イエスは井戸のほとりでこの女にお会いになりました。彼女は罪を赦されて町中の人にイエスのことを知らせました。イエスとの出会が彼女を変えたのです。

 あるとき、4人の人が屋根を壊し、友だちを寝床ごとイエスのもとに下ろすと、イエスは彼を癒されました。主との出会いが奇跡を生みました。

 その日カペナウムの会堂に来られたイエスは聖霊の力に満たされて会衆を見回しました。大切な出会いが待っているのです。苦しみを抱いて生きている人がそこにいるからです。イエスが会衆を見回した時、第一に目をお止めになったのは上等の服を着た人でもうやうやしい儀式でもありません。主が探しておられたのは苦しみを抱いたひとりの人です。聖書には「ここに片手の萎えた人がいた。」と書かれています。片手が不自由でした。食事も自分だけでは出来せん。着物を着たり脱いだりするのも不自由です。握手も出来ず、仕事もうまくは出来ません。片手が動かないのです。

 体よりも魂が健康でない人々が世の中にたくさんいるのは悲しいことです。心の手が萎えていて祈りもせず聖書も読みません。教会へも行きません。主の業に積極的に参加することもしません。私たちの収入の10分の1は神のものなのに十壱献金もしません。魂の手が萎えていては人を助けることも出来ません。肉体的に生きていても、それだけでは誰の益にもなりません。そういう人々は霊の手が萎えてしまっているのです。

 現代のクリスチャンは古えの聖徒たちに習って積極的に生きるべきです。ヤコブを御覧なさい。祈りが答えられるまで主にしがみついて放しませんでした。モーセは信仰によって紅海の水を分けました。荒野で神の民は毎日天からのマナを拾い集めました。初代教会の信徒たちはエルサレムの二階広間に集まり、天からの力を授けられるまで祈り続けたではありませんか。パウロとシラスが牢獄で祈ると神は地震をよってその牢獄の扉を開いてくださいました。彼らは行動の人々でその霊の手は萎えてはいませんでした。

 ところが、現代の私たちは神の御国のためにすべきことは山ほどあるというのに何もせずぼんやり立っているだけです。何ともふがいないではありませんか。もし今日、主が私たちの教会のドアを開けて入って来られたら、真っ先に何をなさるでしょう。先ず私たちひとりひとりの人生の問題に目をお止めになります。主はあなたの着ているものを見に来られるのではありません。聖歌隊の美しい歌を聞くためでも牧師の話に感心するためでもありません。悩みを抱いた人に出会うためです。

 イエスがカペナウムの会堂においでになったのもそのためでした。イエスは会衆を見回して片手の萎えたこの人を深く慈しみ、こう言われました。「立って、出て来なさい」すなわち、立ち上がって人々の前に出なさいと言うのです。弱みは隠したいものです。それが昔から人の常でした。アダムとエバは罪を犯した時、神から身を隠しました。私たちも弱みはとかく隠したがります。なるべく良いところだけ人に見せて立派な人間だと思われたいのです。しかし、イエスの前ではそうはいきません。イエスは私たちの髪の毛の数から私たちの頭をかすめていく汚れた思いや行ないの一つ一つまで全て知っておられるからです。主の御霊は今あなたの傍らにいらっしゃいます。そしてあなたの問題が何であるか見通しておられるのです。2千年前カペナウムの会堂であの人に言われたように「立って出てきて、隠さずあなたの問題を打ち明けなさい。」と言われます。手の萎えた人は前に出て皆の前に立ちました。するとイエスは彼に行動を求めて言われました。「さあ手を伸ばしなさい。」彼がその通り手を伸ばした時、全能の神の超自然の力、世の始めに光と闇とを分けた力、最初のイースターの朝イエスを死からよみがえらせた力、それと同じ力が彼の萎えた手に注がれ、手は完全に癒されたのです。これで彼は自由に活動出来ます。何も出来ないからと引っ込んでいる必要はなくなったのです。食べることも着ることも自由に出来ます。人の手助けさえ今では出来るのです。

 イエスは今日あなたの人生をご覧になりこう言っておられます。「弱さをさらけ出し、私の前に出て来なさい。」主は私たちが信仰を行動に表わすことを願っておられます。信仰によって主の御名を呼ぶのです。主の御名を呼び求める者はみな救われるからです。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と主は言われます。私たちが主の御名を呼び求めれば主は私たちの人生に想像も出来ないほど素晴らしい事を行なってくださいます。あなたは奇跡が必要ですか。あの日カペナウムの会堂におられた同じイエスが今あなたの傍らにおられます。家庭に問題があって助けが必要ですか。罪を犯してしまい良心の呵責に苦しんでいらっしゃるのですか。どうぞありのまま神に申し上げてください。愛する人をなくしたばかりの方もいらっしゃいますね。いつもの場所にあの人はもういません。今こそ神の慰めが必要です。新しい勇気と力を神から頂きこの人生の旅路を天に召される日まで歩き続けてください。お祈りしましょう。