祈りの家族への手紙:2007-07


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 この人たちは皆、・・・約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
 (ヘブル11章13-16節)

 最近私は東京を離れて郊外の町に引っ越しました。通信手段が発達した今では、私が東京に住まなければならない理由は特にないと思ったからです。

 日本のどこにいても、祈りの家族の皆さんと手紙や電話やファックスによって祈り合い、励まし合うことが出来ます。これからもずうっと、ご一緒に天の御国に凱旋するまで、皆さんとの交流は続きます。

 とは言っても、引越しは本当に大変です。実際に東京を離れることは故郷を離れるような気がします。それほど長い間東京に住んでいたからです。

 私が今回の引越しによって経験したことは、それだけではありません。もっと霊的に大きな教訓を得ました。それは、自分の生活の中心になっている住み家を移すことの現実的な意味です。

 疲れて帰った時、安心と休みを得られるところ、おなかを空かして帰ってきた時も何か元気をつけてくれるものがあるに違いないと思えるところ。危険なめにあったり、病気になった時や弱り切った時にとにかく体を休めて平安を取り戻せるところ、それが自分の家です。そのように生活の中心である長年の住み家を移すのですから大変です。長い間にたまったガラクタがたくさんあります。思い出になる絵や写真や本がどこからともなくどんどん出てきます。いつか何かの役に立つだろうと思ってとっておいた、紙や布や紐、木切れや部品、金具や電線、ねじ、釘、管、ありとあらゆるものが出てきます。それらは皆、いつか役に立つと思ってとっておいた物ですが、何十年もその機会もなく無駄に場所をふさいでいました。「買って3ヶ月の間に読まなかった本は99%読むことはない」と言った人がいました。実際、読もうと思っていた本がたくさんありました。その上、長年の間に汚いゴミもたまっていました。

 私は今回それらを全て捨てることにしました。新しい家にはそういうものを持って行かないことにしたのです。しかし、この頃では捨てることにもお金がかかる時代です。それは捨てることの痛みを私に教えてくれました。心のつながっている物を捨てることは荷物を降ろして身軽になることとは違います。後ろ髪を引かれ身を切られるような痛みがあります。その上に処分のための代価も払わなければなりません。もし、この世に執着し、この世の物に心を残したまま天国に行くとしたら、きっと痛みと恐れが伴うに違いありません。

 そこで、汚れやゴミはきちんと処分し、例え役に立ちそうに見えても、本当に必要なもの以外は持ち込まず、これからは出来るだけ簡素に生活することにしました。実際、私たちに必要な物はそう多くありません。いつでも簡単に引越しが出来るようにしておきます。この次の引越しは永遠の御国へだからです。今回の引越しはそのリハーサル(予行演習)と考えることにしました。

 私たちは生まれて以来、多くのことを経験し、多くの人とのつながりを持ち、多くの経験や知恵を積み上げてきました。築き上げた地位、立ち上げた会社や組織、勝ち取った名誉や財産、大切な友達や頼りになる人間関係を持っています。何もかも役に立つと思われるものばかりかも知れません。けれどもそれらは皆、永遠の国には持っていけないものばかりです。地上にいる間だけに役立つものです。

 イエスが言われた、あの難解なことばの意味が少しだけ分かるような気がします。

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14章26、27節)

 実際に父母妻子兄弟を憎むという意味ではなく、地上では大切な人間関係さえも遥かに超えたものを目指す心構えのことを、イエスは教えておられるに違いないと思いました。

 私たちが目指している新しい御国では、地上で築いた物は何一つ役に立ちません。聖く、完全な神が私たちのために用意してくださった栄光の住まいには、私たちが地上で築き上げた物は、たとえどんなに良い物であっても、ゴミやガラクタと同様で全くふさわしくありません。

 パウロはピリピ人への手紙の中でこう言っています。

 「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」
 (ピリピ3章6-9節)

 キリストと共に神の臨在の中にいる新しい住まいは、完璧な住まいであって、地上で築いたどんなものも必要なく、ただ、キリストとの関係だけが問われるのです。

 ですから、地上のことに心を奪われないようにしましょう。いつでも新しい住まいに移ることが出来るよう備えていましょう。そうすれば、どんなことがあろうとも、いつも平安を失うことなく、永遠の御国への期待と喜びがますます大きくなってきます。

 あなたは愛されているからです。

レックス・ハンバード世界宣教団 

日本主事 桜井 剛