レックス・ハンバードのテレビ番組「明日への希望」より
No. 200707
真実の信仰
さて、今日のメッセージは最近私の心にかかっている2つのことについてです。
第一に悪の霊と正しい霊、神の霊と悪魔の霊です。第二に真実の信仰についてです。よく言いますね、新しく生まれたとか信者であるとか。
数日前のことですが、私が飛行機に乗ろうとしていた時です。その日は込み合っていて、大勢が押し合いへし合いして皆かなり神経がとがっていました。私が機内に入ろうとすると、ひとりの若い女性が舌打ちをし口汚くののしりました。そのひどい言葉に、私はそばにいるのさえ恥ずかしい思いでした。ドアーが閉まり飛行機が離陸して間もなく飲み物のサービスがありました。見ているとその人はかなり強い酒を飲んでいました。そのうちに彼女は振り返って通路ごしに私の顔を見るとこう言いました。「ハンバード先生ね。テレビで見てるわ。私も信者よ。」私は考え込みました。信者とは何だろうと。新約聖書使徒の働き16章にパウロとシラスが祈りに行った時のことが書かれています。
途中でひとりの女がついて来てこう叫びました。「この方はいと高き神のしもべで、私たちに救いの道を示しに来たのです。」彼女は占いをしては人々からお金をもらっている女でした。悪い人たちに金儲けに利用されていたのです。汚れた霊に取り付かれていて、その力で占いをしていました。彼女の様子をみていたパウロはそれが神の霊ではないことをすぐ見抜きました。確かにその女の言っていることは真実です。二人はいと高き神のしもべです。しかしそこでパウロは振り返って女を叱ったんじゃありません。
不親切なことを言ったのでもありません。彼はこの女に占いをさせている霊が何であるかを見抜いてその霊にこう言いました。「私はお前に命じる。ナザレのイエスの名によって彼女から出て行け。」すると悪霊が彼女から出て行ったのです。占いをせよと人々からいくら言われてももう出来なくなりました。神の霊が汚れた悪の霊を追い出したからです。人は誰でも、どちらかの力に支配されています。善か悪か、神か悪魔か。時には混乱しやすいですが、それがどちらの霊から出たことかを見分ける確かな方法が1つあります。これは、いつか読んだ新聞の記事にあったんですが、あるとき判事の前に引き出された男が「なぜ妻を殺したのか」と聞かれてこう答えたそうです。「神が殺せと言ったので。」いいえ。「妻を殺せ」と神が命じるはずはありません。霊が命じたかも知れませんがそれは悪魔の霊であって神の霊ではないのです。なぜなら、神の霊は神のことばである聖書の教えと一致するはずだからです。霊が「妻を殺せ」と命じたとしても聖書には「殺してはならない」と書かれています。ですからこれは神のことばの教えとは正反対です。悪の霊に動かされて何かをする人がいます。どうぞ注意してください。私たちは神のことばに立ち返り、どちらの霊が私たちの生活を支配しているかを見分けるべきです。
さて、パウロとシラスがこの女から悪霊を追い出すと、彼女の占いで儲けていた者たちは営業妨害で二人を訴えました。二人は鞭で打たれ、牢にいれられ、さらに手かせ足かせをはめられて身動き出来ない状態でした。それなのに、聖書には「真夜中頃にパウロとシラスは讃美の歌をうたい、神をたたえていた」とあります。いいですか、どうぞよく聞いてください。私の著書に「土台が崩れても倒れない秘訣」という本があります。土台が崩れる時があるとしたら、まさしくこの時です。パウロとシラスは福音のために鞭で打たれ、投獄され、かせにつながれたまま身動きできません。真夜中に彼らは何をしたのでしょう。己の不運に愚痴をこぼしましたか。いいえ。二人は神をたたえて歌い始めました。すると神は地震を起こし、牢の扉を開け放ちました。牢番はこれを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い、自殺しようとしました。パウロは言いました。「自殺してはいけない。皆ここにいる。逃げる必要など何もない。」牢番は彼らの前にひれ伏して尋ねました。「先生方、私はいったい何をしたなら救われますか。どうしたら、新たに生まれ、本当の信者になれますか。」
そこで三つ、私たちのなすべきことを申し上げましょう。
聖書にこうあります。主イエス・キリストを信じなさい。そうしたら救われます。これがパウロの答えです。真実の信仰の第一は、知識を持つこと、つまり、神が存在しておられ、聖書が神のことばであると知ることです。しかし、それだけでは十分ではありません。悪魔だって神の存在を知っておののいています。そこに感情と行ないが伴わなければなりません。「感情的になるのはどうも」とおっしゃるのですか。それでは聖書の教えを信じていないのです。イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを出て紅海を渡り向こう岸に着いたとき、タンバリンを打ち鳴らし神に向かって踊り、讃美をしました。追って来たパロとその軍勢が海の底に沈んだのを見たからです。
「宗教において感情的になるのはいやだ」と言うその同じ人がフットボールの試合でも見に行けば、興奮して大声で叫んだり帽子を空中に放り上げたりします。それなら信仰に関しても大いに感動してもいいじゃありませんか。
第三に大切なのは、私たちの知識と感情を神に委ねることだけでなく、意志をも委ねることです。私たちの意志あるいは心が一番の土台となって善か悪か、聖か邪か神か悪魔かを選ぶのです。ですから私たちはこう言います。「主よ私は今、知識においてあなたを信じます。さらに感情をイエス・キリストにお捧げします。わが道ではなくあなたの道、わが思いではなくあなたの思いを、わが願いではなくあなたの願いを第一にします。私の手も足も、そして目もお捧げします。私の体を聖霊の宮とします。」
多くの人は知識と知的な理解を重んじますがそれだけでは不十分です。ある人は感情面を大切にして、おしゃれをして礼拝に出席しますが、まだ不十分です。これは皆必要で良いことです。しかし同時に大切なのは私たちの意志を神のご計画に委ねることです。あなたも今そうなさってください。人生が変わります。祈りましょう。
主イエスよ。どうかあなたの聖霊をつかわして、今これを聞いている全ての人に臨み、その人の心を開いてください。彼らが知性で信じ、実生活でそれを実践し、自分の意志と魂とをあなたに委ねますように。どうかあなたが聖霊をつかわし、彼らの心と人生を支配してください。今日一人一人が本当に信じ、イエス・キリストを救い主として受け入れますように。今日彼らの心にくすしいわざを行なってください。問題のある家庭に平和を与え、あの病院のベッドに伏している孤独な病人に癒しの手を伸べてください。鉄格子の中のあの人に今日希望と正しい勇気とをお与えください。足元が崩れ途方にくれている人もいます。主イエスよ今日あなたが御手を伸べて平安をお与えください。また、祈りのリクエストを書いて送ってくれた人々の重荷を取り除き、精神的、肉体的、霊的、経済的に全ての必要をお満たしください。
祈りの家族を祝福してください。栄光と誉れと讃美をあなたに捧げます。アーメン。