親愛なる祈りの家族の皆様。
信仰の勇士とも言うべき使徒パウロは肉体的な弱さを持っており、そのために日夜悩まされ、辛い思いをしていたようです。彼は「どうかこのとげを取り除いてください。」と何度も主に祈りましたが、主はこう言われました。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第二の手紙12章9節)
どのような肉体的な弱さであったのかは分りませんが、パウロにとっては、とげが刺さっているような辛さだったに違いありません。実際そのような経験をされた方や現在そのただ中にある方もおられることでしょう。けれども、主はそれを「私の恵みである」と言われるのです。痛みや辛さがどうして恵みとなるのでしょうか。
たいていの場合、私たちはできるだけ平穏無事で何事もないことを願います。思いがけない出来事によって心を乱されたり、困難な状況におちいったりしたくないからです。ところが、思いがけない出来事は誰の上にもやって来ます。幼い時は両親が守ってくれているため、厳しい現実に直接さらされることはないかもしれません。若い時には希望と自信に溢れているために、たいていの困難を乗り越えることが出来るでしょう。たとえ挫折したとしても、やり直すことが出来ます。けれども、年を経るにつれて何事も自分の思うようにはいかなくなります。やり直す時間もあまりありません。大きな困難に立ち向かう力もだんだん失せてきます。そういう時、私たちはどうすればよいのでしょう。それでも「困難は恵みである」と言えるのでしょうか。
ヨブは神の目に正直で真面目な人でした。ところが、彼の上に誰も経験したことがないような大きな災害の数々が一度に降りかかってきました。財産を全て失い、子どもたちを全部なくし、健康も奪われ、妻の心も彼から去ってしまいました。彼に何が残されたでしょうか。神に対する信仰だけでした。
私は彼が平然としていたとは思いません。彼は着ていたものを破り、髪の毛をそり、地にひれ伏して大いに嘆き、悲しみの限りを表現しました。
ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して・・・(ヨブ記1章20節)
けれども、それだけで終りませんでした。彼はいつまでも悲しみの中に座り続けて一生を終るようなことをしませんでした。神に目を向けて立ち上がったのです。彼は思い切り嘆き悲しんだ後、こう言いました。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。(ヨブ記1章21節)
私はそこが素晴らしいと思いました。
悲しいときは大いに悲しんでよいのです。苦しい時は叫び声をあげてもいいのです。けれども、それだけで終ってしまうのではあまりにも惨めです。全てのことを承知しておられる神に目を向けることを忘れてはいけないのです。主は私たちの弱さの内に働かれるからです。
私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(コリント第二の手紙12章9節、10節)
アメリカのレックス・ハンバード世界宣教団本部が経済的な危機におちいり、テレビの製作も放映もやめなければならなくなった時、日本ではテレビ局への未払いが1000万円を越えていました。放映すべきテレビ番組も送られてこず、資金の援助も期待できなくなって、私は経験したことのない困難に直面することになりました。そのうえ、定期健診で胃の精密検査が必要と言われて、とても心配しました。まさに、ヨブのような心境になりました。けれども、私には元気な子どもたちがおり、妻も私を支えてくれました。ですから、ヨブよりも何倍も幸いでした。私はその時、自分にないものや失った物に目をとめるのではなく、与えられている物、まだ残されている恵みについて感謝することを学びました。そして、自分の力では出来ないことを認めた時、神に目を向け神の力に全面的に信頼することが出来るようになりました。また、謙虚になって人の助けも素直に受けとることが出来るようになったのです。その時与えられた平安は何物にも動じない強さとなり、自分の力を十分に発揮して、どんなことでも耐えて乗り切る覚悟が出来ました。
ヨブは全てをなくしてもなお「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章)と言うことが出来ました。なぜなら、彼はだれも奪うことの出来ないものを自分から手放すようなことをしなかったからです。それは神への信仰でした。どんな時にも神を信頼することです。それさえ持っていれば、どんな状況におちいった時でも決して平安を失うことはありません。
状況が良く全てが順調な時には何事もうまく行くように思い、それが当たり前と思って神に頼ることを忘れてしまうかも知れません。けれども、自分が弱さを感じてそれと向き合う時、本当の実力が発揮され、成長するのです。そこにその人の真価が表わされるのです。ですから「その試練は私からの恵みである」と主は言われるのです。多かれ少なかれ弱さや試練は誰にでもあります。それを、とげと見るか恵みと見るかはその人しだいです。
あなたは今、弱さを感じておられますか。私も感じています。弱いところがたくさんあります。
あなたは今、痛みを感じておられますか。私も痛みを感じることがたくさんあります。
あなたの弱さや痛みを神の前にさしだしてください。
今年も、クリスマス特別祈りのリクエストのためにお祈りします。レックス・ハンバード・ジュニアをはじめ、アメリカのレックス・ハンバード世界宣教団の人々にも祈ってもらいます。私も祈ります。主は私たちが主の恵みを忘れないよう、一時的な痛みによって私たちの肩をたたいてこう言っておられるのです。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)主を信じ、主の御名をほめたたえましょう。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛