親愛なる祈りの家族の皆様。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1章1節)
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1章14節)
神の子イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスはとても素晴らしい時だと思います。プレゼントがもらえるからではありません。おいしいご馳走が食べられるからでもありません。クリスマスツリーや電飾などのきれいな飾りが町中いたるところに見られるからでもありません。この時期になると世界中の人がイエス・キリストのことを思い起こしてくれるからです。しかし、クリスマスはただ歴史上の出来事をお祝いするだけのものではありません。クリスマスはイエス・キリストとともに私たちが主人公になる時です。人となってこの世に来られた神の子を私たちが心に迎え入れる時だからです。また、心にイエス・キリストを迎え入れていることを確認する時です。それによってあなたの心が大きな平安に満たされるのです。全ての人に本当の平和が訪れること、それが神の願いだからです。
人は神の前に罪を犯し、その罪が人を神から引き離し、ますます遠ざかって、神が分らない、神を知らない、さらに、神はいないとまで言うようになってしまいました。それによって人は、神から来る多くの祝福を受け取れなくなり、自分がもたらす多くの災いをとどめることも出来ず、自分で自分を罪の性質の中に追い詰めているのです。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができません。(ローマ3章23節)
人が神と身近な関係にあった時には、祝福を思う存分に受け、災いや困難からも守っていただくことができたのです。その恵まれた姿に戻ることはもう出来ないのでしょうか。そんなことはありません。神は罪を悔いる者を赦すと言っておられます。
「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
(エレミヤ18章8節)
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
(イザヤ55章7節)
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
(詩篇103編2節)
人は神の前に悔い改めをすると言っても、もともと罪の性質を持って生まれてきた不完全な人間は、神の前に完全な悔い改めをすることはできません。完全な悔い改めをすることが出来るのは完全な人間だけです。けれども、神の前に完全な人間なら悔い改めの必要はないのです。
神から遠く離れ、神を見失ってしまっている人間は、自分の力ではとうてい罪に見合った償いも、自分の罪にふさわしい悔い改めもできなくなっているのです。
けれども、完全な方が不完全な人間に代わって完全な悔い改めをしてくださるとしたらどうでしょう。神は罪にまみれて遠く離れて滅びていく人間を特別に憐れみ、愛し、救いの道を開いてくださいました。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3章16、17節)
ひとりの男の子がショウウインドーのガラスに鼻を押し付けるようにして奥の方においてある犬小屋を見つめていました。お店の人が中に招き入れると、しばらく犬と遊んでから帰って行きました。それからは毎日のように店に来ては犬と遊ぶようになりました。お店の人が「坊や、犬が好きなんだね。」「うん」と男の子はうなずきました。そこで店の主人は言いました。「そうだ、こうしよう。坊やがおこづかいをためたら、ここの犬はどれでも一匹1ドル98セントで売ってあげよう。」もちろん、その犬は1ドル98セントで買えるような犬ではありませんでした。店の主人がその少年の熱心さに心を引かれたのです。男の子は急いで家に帰るとお母さんに言いました。「ぼく何でも手伝うから言いつけて。何でもするから。ぼく、お金がいるんだ。」それから、お皿を台所に運んだり、タオルをたたんだり、出来るだけのお手伝いをして、5セントまた10セントとためて、とうとうある日1ドル98セントになりました。
息をはずませてお店に行くと、カウンターに1ドル98セントを並べました。店主は優しく微笑んで言いました。「良くやったね、坊や。どれでも好きな犬を持って行っていいよ。」すると。男の子は店の奥に行き「ぼくこれにする。」と言って、一匹の子犬をしっかりと抱き上げました。店主は驚いて言いました。「坊や、遠慮しなくてもいいんだよ。どの犬でも坊やのものにしていいんだから。」けれども男の子は言いました。「ぼくこれがほしいんだ。」「でも坊や、良く見てごらん。この犬は足が悪いから、坊やと一緒に跳んだり走ったり、ボールを追っかけたりできないんだよ。」「いいんだよ、おじさん。」そう言って、ズボンをたくし上げて義足を見せました。「ぼくも同じなんだ。」
何の価値もないと思われていたものが愛され、弱さと痛みを理解され、特別に選ばれて宝物のように大切にされたのです。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(へブル4章15節)
イエス・キリストはあなたの悩みをご存知です。あなたの弱さや欠点もすべて知った上で、あなたを特別に愛しておられるのです。イエス・キリストは全能の神としてあなたに同情しておられるのではありません。人となり、人の悩みや苦しみを経験し、その弱さと痛みを十分に知り尽くした上で、あなたを愛し、命を懸けてあなたを神のもとに引き寄せておられのです。
クリスマスのお祝いは、イエス・キリストと共にあなたが主人公なのです。あなたのためにイエス・キリストはこの世に来られたからです。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード世界宣教団
日本主事 桜井 剛